2012年03月09日

上田和夫著『ユダヤ人』

この読書ブログの2回目の書籍として、上田和夫著『ユダヤ人』(講談社現代新書)を選びました。私はユダヤ人の歴史やものの考え方、その独特の知性の輝きといったことに非常に興味があります。歴代のノーベル賞受賞者に占めるユダヤ人やユダヤ系学者の割合は非常に高いと言われることがしばしばあります。また、マルクスやアインシュタイン、フロイトをはじめとして様々な分野で大きな業績を残したユダヤ人は世界の歴史に永久に名前が語り継がれています。

一方で、ユダヤ人国家であるイスラエルは、国際政治の中では時にあまりにもやり過ぎだと批判されるような政治的、軍事的な動きを見せることがあります。折しも、イランの核開発が問題視されている目下の情勢下において、イランに対してイスラエルが奇襲攻撃を仕掛ける可能性が指摘され、世界のメディアや専門家の注目を集めています。実際、イスラエルは1981年にイラクのオシリス原子炉を空襲し破壊するという空軍の軍事作戦を実行した事例があるだけに、今回のイランの核問題に関しても、決して楽観できない情勢が続いています。

『ユダヤ人』という本は講談社現代新書から出版されている本で、今は講談社現代新書は装丁が新装されていますが、私が持っているものは1964年4月創刊当時の古い装丁のものです。この本自体も最初に出版されたのは1986年です。

M00266386-01.jpg

さっそく、内容に入っていきたいと思います。ユダヤ人というと、2000年の流浪の民であり、迫害に次ぐ迫害の歴史を通ってきた民族として知られています。バビロン捕囚、出エジプト、古代ローマ帝国の支配、ディアスポラ、シャイロック、ポグロム、ナチスドイツによる大虐殺、イスラエル建国といったキーワードが誰のイメージの中にも浮かんでくることでしょう。

本書には、そういうことについて一通りの記述がありますが、その中でも、私にとって特に強く印象に残ったポイントについて、以下に紹介したいと思います。

ローマによる支配によって世界中に離散したユダヤ人たちはイベリア半島に逃れますが、15世紀にスペインをカトリック教国にしようという動きの中で異端審問が始まり、スペインを退去するように通告が出されます。ユダヤ人は隣国ポルトガルに逃れますが、そこでも異端審問が行われ、一時的な避難場所にすぎませんでした。そこで、さらにギリシア、トルコ、北アフリカ、イタリア、オランダなどに避難します。その中で、オランダではユダヤ人にとって比較的信教の自由が保証されていたという点に注目しました。

当時のオランダは、貿易で国を興そうとしていたため、商業を得意とするユダヤ人にとっては好都合でした。オランダ最大の都市アムステルダムを中心として、経済発展に大きく貢献しました。ただ、かなり自由なユダヤ教の信仰を認められたユダヤ人の間では、ユダヤ教の伝統をあまりに厳格に実行したために、逆にユダヤ人の内部からもっと自由な考え方を希望する批判者が出てきました。その代表的な人物の1人が、哲学者のスピノザだったのです。

スピノザはアムステルダムのユダヤ人街で商人の息子として生まれ、敬虔なユダヤ教徒でした。彼はタルムードやカバラを学び、将来はユダヤ教のラビを嘱望されていましたが、ユダヤの神学だけでは満足できず、ラテン語を習得し、ギリシア哲学やスコラ哲学も学んだのでした。こうしてユダヤ教の境界を越えていったスピノザは、聖書は完全に人間が創ったものであり、ユダヤ人の連帯を強めることを意図したものだと主張しました。また、ユダヤ教の祭式や教えを無視し、キリスト教の会合にまで出席するという行動に出るようになり、1656年にはユダヤ教会から破門されてしまいました。彼はそれにも屈せず、名前をラテン語風に変えて、ハーグでキリスト教徒と過ごしましたが、彼自身はキリスト教徒にはならず、一時はハイデルベルグ大学に招聘される話もありました。ところが、それを断り、レンズ磨き職人として働いたのでした。しかし、結局、1677年に44歳で肺結核で亡くなりました。

オランダというユダヤ人にとって宗教信仰の面で比較的寛容な環境にあった中で、スピノザという異端者が現われたのは、皮肉と言えばいいのか、独特の展開が見られたんだなあと思います。

次に注目したのは、日本の帝国劇場で上演されて日本人にも親しまれた『屋根の上のバイオリン弾き』の話です。この作品は、ロシアのイディッシュ語(ユダヤ人の使う日常語)作家であるショレム・アレイヘムが書いた「牛乳屋テヴィエ」と「故国」という2つの物語をまとめたものです。物語の舞台は、帝政ロシア時代末期の1905年のアナテフカ(架空の地名)という寒村に暮らす5人の娘を持つユダヤ人である牛乳屋のテヴィエの一家を描いたものです。

このミュージカルを観た感想として、著者の上田和夫氏は三女の名前ハヴァがチャヴァとなっていたのには驚いたと書いています。ハヴァというのは、「創世記」の中に出てくる最初の女であるイヴのヘブライ語名であり、900回を超える上演回数を重ねながら、ずっとチャヴァで通してきたということでは、はたしてユダヤ人についてどれだけわかっているのかといぶかしくなる部分があるということです。また、「司祭」という呼び名を使っているのにも抵抗を感じたそうです。ユダヤ教の用語なのだから、ラビという言葉を使ってほしいと。

作者のショレム・アレイヘムは、非ユダヤ人にもよく知られており、ユダヤ人の間でも抜群の人気作家です。その理由としては、作品そのものが明るくユーモアに富んでいて、庶民的だからです。彼はイディッシュ文学史上、メンデレ・モイヘル・スフォリームイツホク・レイブシュ・ペレツと並んで、近代の三大古典作家の1人であり、「イディッシュ文学のマーク・トウェイン」と呼ばれている大作家です。1859年にウクライナのペレヤスラフという町で生まれ、本名はソロモン・ナフームヴィッチ・ラビノヴィッツといいます。その生涯も波瀾万丈で、1916年にニューヨークで最期を迎えました。当時、イディッシュ語新聞は「ショレム・アレイヘム死す」と大見出しをつけ、その2日後に行われた葬儀には1万人以上もの人たちが参列し、この偉大なユダヤ人作家を見送ったといいます。彼は子供たちに対する遺言を、次のような言葉で締めくくっています。

お母さんを大事にしてあげておくれ。お母さんの年齢を若くみせてあげておくれ。つらい人生を甘いものにしてあげておくれ。傷ついた心をいやしてあげておくれ。反対に、私のために泣かないでおくれ。反対に、喜びをもって覚えていておくれ。そして、最も大事なことだが、みんな仲よく暮らしておくれ。他人に憎しみを抱かないでおくれ。つらい時には助け合っておくれ。時々、家族の他の人たちのことを思い出しておくれ。かわいそうな人をいたわってあげておくれ。そして事情が許せば借金も、もしあるならばの話だが、払っておいておくれ。子供たちよ、誇りを持って、私がやっとのことで得たユダヤの名前を誇りを持って維持しておくれ。そして天の神さまがお前たちをいつまでも支えていて下さるように。

続きを読む
posted by 平井和也 at 23:48| Comment(0) | 読書 学術 書籍 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年03月04日

僕の叔父さん 網野善彦

このブログで取り上げる最初の書籍として、中沢新一著『僕の叔父さん 網野善彦』(集英社新書)を選びました。大きな理由としては、私が住んでいる山梨県出身(山梨市)の学者である中沢新一さんに注目してみたいと思ったということです。また、最近、改めてこの本を読んで、強く印象に残ったということもあります。

私が中沢新一という学者の存在を初めて知ったのは、もうだいぶ前の大学生の頃でした。あるテレビ番組で中沢さんがキリストとブッダについて解説しているのを見て、中沢さんを知るようになりました。もっと正確に言うと、もう少し以前から中沢さんの顔をメディアで見た記憶がありましたが、その時にはまだ特別意識していませんでした。前述の番組を見たことがきっかけで、中沢さんが僕と同じ山梨県出身だということを知って、親近感を覚え、興味を持つようなりました。

今から6年から7年くらい前のことですが、山梨の甲府で行われたあるイベントに中沢さんがゲストとして登場し、そこで生で話を聴いたことがあります。当時中沢さんは、中央大学で教鞭を執っていた時期です。

『僕の叔父さん 網野善彦』は、そのタイトルが示している通り、中沢さんが自身の叔父である歴史学者の故網野善彦さんと初めて会った5歳くらいの幼き日の記憶から大人になって学者として専門的な議論を交わし交流するようになった頃までの思い出を綴った追想記です。

これを読むと、中沢新一という思想家が、生まれるべくして生まれたんだということがよくわかります。幼い頃から、父親や叔父たちが家の中で激しい思想的な議論を交わしているのを横で聞いていたという家庭環境の中で育ち、その思想的な素地が自然と養われていったことが、実感として伝わってきます。

民俗学の研究をしていた父親・中沢厚の妹、つまり中沢新一さんの叔母が、当時駆け出しの歴史学者だった網野善彦さんと結婚し、中沢さんの家系に加わることになりました。当時、網野さんは常民文化研究所の活動に関わっており、中沢さんの父親は、自身が民俗学の研究をしていたということで、常民文化研究所の動向には並々ならぬ関心を寄せていたといいます。そこの仕事のお手伝いに入った妹が、同じ山梨県出身で、中世の荘園や漁業史の古文書を研究していた網野さんと結ばれたということで、父親は非常に喜んでいたそうです。

中沢家は代々、「理念」や「理想」、「観念」といった抽象的な思索の世界を追求する家柄であり、網野さんが中沢家と親類関係を結んだことは、両者にとって理想的な結びつきだったわけです。

網野さんは銀行家の一家の末子に生まれ、お兄さんたちが皆金融や実業の世界で早くから活躍する中で、網野さんだけが貧乏な学者の人生を選びました。お兄さんたちからは小さい頃から、頭でっかちで観念的で泣き虫な性格を批判されていたそうです。

ところが、中沢家に新しく「兄」として入ると、他の家系ではあり得ないほど「理念」や「理想」、「観念」を追い求める環境に身を置くようになったわけです。こういう家柄は、中沢家では既に何代にもわたって続いてきたものであり、中沢新一さんから数えて四代前のご先祖さんである紺屋徳兵衛という人は、生糸の生産と藍染めを生業としながら、神官のような白い袴を身にまとって、神祈祷を行っていたという話が残っているそうです。

その次の代の中澤徳兵衛という人物は、幕末に生まれ、明治の文明開化を全身に受けとめて成長し、生糸の生産販売と貿易で大きな成功を収め、財産をなすと、周囲の人々の驚きを尻目に友人二人と堂々とキリスト教徒に改宗してしまいました。そこで洗礼を施したのは、甲府にあった日本メソジスト教会の牧師・山中共古でした。この人は江戸城大奥勤めの後、維新後静岡で出会った元新撰組隊士結城無二三から洗礼を受けて、クリスチャンとなった人であり、さらに民俗学の草分けとして今日でも名を残している人物です。日本民俗学の出発点を飾る書物として名高い『石神問答』は、山中共古が柳田國男と交わした往復書簡をもとに著されたものです。中澤徳兵衛は、この山中共古の力添えを得て、日下部教会を創設したのでした。

この時のキリスト教への改宗が、子孫の精神的遺伝子に「理念」や「思想」をことのほか重んじる観念的な傾向を植え付けることになったのだろうと考えている、と中沢新一さんは書いています。

エビやカニなどの甲殻類を研究する生物学者だった祖父の毅一は、駿河湾の深海生物を研究するために、由比蒲原に私財を投じて、「駿河湾水産生物研究所」を建て、サクラエビなどの研究を行いました。この人は晩年になると、生物学への情熱にもまして、キリスト教の神への信仰と生物学的世界観と日本人の共同体の思想を結合しようとする思想的な著作に打ち込むようになり、『神・人・動物』(1938年)や『我国体の生物学的基礎』(The Biological Basis of Our Country’s Existence;1941年)という論文を書き上げました。

天皇を頂点とする国家制度(国体)の論理を、生物学・生態学的な視点から解明しようとしたこの論文は、父親の世代の兄弟たちの精神に大きな動揺をもたらし、NHKに入った長男を除いて全員がマルクス主義者になりました。家の中では常に思想的な議論が活発に行われ、キリスト教と皇国史観とマルクス主義が、ひとつの坩堝の中でたえず沸騰している状態でした。そして、その思想の坩堝の中に、網野さんが飛び込んできたのでした。

『僕の叔父さん 網野善彦』を通して強く感じることは、中沢新一さんが網野さんの思考の発展過程を叔父と甥という関係性の中で、実際に間近で体感してきたリアリティーです。1968年に佐世保にアメリカの原子力空母エンタープライズが給油のために入港しようとした時、それを阻止しようとヘルメットと角材で武装した学生と労働者が機動隊と激しく衝突している映像をテレビで見ていた父親が、それがきっかけとなって子供の頃の思い出話を始め、それが思いがけない形で網野さんの研究につながっていったという話は、特に私の心に強い印象を残す記述でした。中沢さんの父親は、まとめると次のような話を始めたそうです。(46ページから47ページ)

子供の頃、笛吹川の対岸の堤防に、万力村や正徳寺村の子供たちがずらりと並んで、こちらを睨みつけていた。手には皆小石を握って、こちらに向かって大声で囃し立ててくる。すると、堤防のこちら側に並んだ子供たちも負けじと罵り言葉で応戦し、それを何度か儀式のように繰り返した後、投石合戦が始まった。投石をまともに喰らって、顔からぼたぼた血を流している友達もいる。しかし、そこでひるんだりしたら、後で皆にバカにされるから、夢中で石を投げ続ける。そして、不思議なことに、誰が命令したわけでもないのに、しばらくすると自然と投石が止んだ。普段だったら親に怒られるところだが、大人たちは怪我をして血だらけになった子供を、よくやったと迎え入れてくれた。

父親は、この話をした後、何かに取り憑かれたようになってこの投石合戦のことを調べ始めると、やがて民俗学事典の「菖蒲切り」という項目に行き当たりました。すると、かつて五月の節句の季節に日本列島の広い地域で行われていた子供の民俗行事だったということが判明しました。

ちょうどそれが判明した頃、うまい具合に網野さんが山梨の家に遊びにやって来るのでした。そこで、父親が調べてわかった「菖蒲切り」の話をすると、網野さんは、こういう返事をしたそうです。

「中世にたしか『飛礫』(ひれき)という言葉があったように思います。そうですよ、悪党たちが闘うときには、まず飛礫を飛ばして、相手をひるませてから、飛び出していくというような記事をどこかで読んだことがあります。飛礫を飛ばす専門的な連中もいたんじゃなかったかなあ。そうだ、そうですよ。あれは悪党の闘い方ですよ」(50ページ)

そして、父親の返答を聞いた後、網野さんはさらに次のように言ったそうです。

「兄さんの話はとても大事です。目から鱗が落ちたような心境です。ぼく自身、自分がなぜ悪党なんかに惹かれ続けてきたのか、その意味が今ようやくわかってきたような気がします。飛礫が菖蒲切りのような民間の習俗と、同じ起源から出ているとすると、悪党という存在そのものが、中世とか古代とかいうことよりももっと根源的な、人類の原始に根ざしていることになってきます。鎌倉時代の、あの歴史の転換点に浮上してきたのが、まさにそういう原始をになった人々だった。そう考えると、なぜあの時代だけにかぎって、日本人の宗教思想が飛躍的に深まったのかまで、わかってくるような気がします。兄さんの話はとても大事です。ぜひこれから飛礫の研究をしてください」(51ページ)

この会話をきっかけとして、網野さんの思考の内部で激烈な変化が起こりました。中世の古文書の記録を丹念に調べ上げ、歴史に真実の転換をもたらすものの本質を、ようやく探り当てることができたという確かな実感をつかんだような雰囲気だったといいます。常識を覆す視点に立った全く新しい中世像が、網野さんの前に明瞭な姿を現わそうとしていました。

ただ、律儀な網野さんは、自分の思考に最初に火をつけてくれた人を立てるために、自分よりも先に父親(義理のお兄さん)に飛礫についての研究を出版してほしいと願い出ました。が、父親から説得されて、その後1973年の夏に本の執筆に取り掛かり、『蒙古襲来』を書き上げました。

この他にも、網野さんと中沢さんの様々な思想的な交流が綴られていますが、「終章 別れの言葉」の最後のページに、中沢さんは網野さんへのお別れの言葉を次のように締めくくっています。

私は自分が網野さんのような人と出会い、叔父と甥の関係をとおして親友のように仲よくなり、たがいが心に思うことを存分に語り合うことができた、そのことにかぎりない人生の神秘を感じるのだ。私は思うさま泣いて、そして深く感謝した。このようなつたない人間でしかない私を最後まで心からかわいがってくれた「僕の叔父さん」、長いあいだほんとうにありがとうございました。

posted by 平井和也 at 00:34| Comment(0) | 読書 学術 書籍 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
Twitterボタン
Twitterブログパーツ
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。