2012年04月02日

『ベネディクト・アンダーソン グローバリゼーションを語る』

今回このブログで取り上げるのは、梅森直之編著『ベネディクト・アンダーソン グローバリゼーションを語る』(光文社新書)です。本書には、2005年4月22日と23日の2日間に渡って早稲田大学で行われたベネディクト・アンダーソンの講演の内容がまとめられています。

ベネディクト・アンダーソンは、インドネシア、タイ、フィリピンを中心とする東南アジア研究、ナショナリズムに関する理論的研究で知られる高名な学者であり、コーネル大学政治学部教授です。

私がベネディクト・アンダーソンという学者について初めて知ったのは、もう何年も前に読んだ対談本『ナショナリズムの克服』を通じてでした。この本の中で、「想像の共同体」というキーワードについて語られていて、この言説について初めて知った時には新鮮でした。

『ベネディクト・アンダーソン グローバリゼーションを語る』を読むと、非常に複合的で混交的なバックグラウンドを持つベネディクト・アンダーソンという学者が、その独特の複雑な背景と人生経験に基づいて「ナショナリズム」というテーマを大きな研究の主題に選んだのが必然的な帰結だったということがよくわかります。ベネディクト・アンダーソンの混交的な生い立ちや背景についてまとめると、以下のようになります。

ベネディクト・アンダーソンの父親はアイルランド人で、母親はイギリス人。父親も異種混交的なバックグラウンドを持っている。祖母系の家系は、真正なアイルランドの古いカトリックで、ナショナリスト運動に活発に参加していたことがある。それに対して、祖父系の家系は、17世紀後半に土地を獲得し、徐々に「忠良なイギリス系アイルランド人」になっていった「入植者」で、インドや東南アジアにおける大英帝国の活動のために兵士を供給する家系だった。この2つの家系が1850年頃に混じり合った。また、宗教的にはプロテスタントとカトリックが混合しており、アンダーソン自身、子供の頃は両方の教会に通った。大英帝国の少佐の家に生まれた父親は、生涯の多くを中国で過ごし、アンダーソンも1936年に中国の昆明で生まれた。

太平洋戦争開始の直前に米国に渡り、米国で3年間を過ごした後、1945年にアイルランドに戻ってきた。そこでイギリスのエリート小学校に通い、イギリスで最も有名な高校に行くための奨学金を獲得し、古典古代の研究や近代の言語と文学、ヨーロッパ史を中心に学んだ。その後、ケンブリッジ大学で修士課程を修了し、東南アジア研究が充実していた米国のコーネル大学に渡り、インドネシア専門家を目指した。

1962年にはインドネシアに移住し、2年半滞在した。その間に、スカルノ派と反スカルノ派の動乱が発生し、スハルトが無血クーデターで指導者の地位に就き、1998年まで続く独裁政権が樹立された。この事件はアンダーソンに大きな影響を与えた。というのも、この事件によってアンダーソン自身が国外退去を命じられ、27年間も入国禁止になったからだ。

そのような経験や研究に基づいて、1983年に『想像の共同体』を出版した。この本に対する周囲からの反応の中で興味深いのは、アンダーソンの専門分野である政治学からではなく、人類学や歴史学、文芸批評、カルチュラル・スタディーズといった分野からの批評が行われたということだった。この本は、デリダやフーコーといったフランスの現代思想の影響が明瞭に認められると言われ、アンダーソンはポスト構造主義者、ポストモダン主義者だと評された。ところが、アンダーソン自身は、『想像の共同体』を正真正銘の構造主義的、マルクス主義的なテキストだと考えており、この本を執筆した時点では、デリダもフーコーも全く読んだことがなかったのだった。

また、この本はドイツ語、スペイン語、日本語、ポルトガル語、トルコ語、韓国語、スウェーデン語、デンマーク語、ノルウェー語、アラビア語の各国語に翻訳されたが、ここで面白いのは、グルジア語やチェチェン語といった旧ソ連の言語にも翻訳されたということだ。これには、ジョージ・ソロスがかつてのソビエト連邦を文明化しようという考えの下に登場し、100人の有名な学者を集めて委員会を結成し、旧ソ連の全ての言語に翻訳されるべき100冊の重要な本を選ぶように呼びかけたという事情があった。そのリストの中に『想像の共同体』が含まれていた。ソロスは、こられの書籍を翻訳出版してくれる人に、その費用の50%を補助すると提案し、『想像の共同体』は予想外の形で翻訳版が出版されたのだった。

さて、ではここからアンダーソンが『想像の共同体』の中で、具体的にどんな主張を展開したのかについて注目してみたいと思います。

この本の中で、アンダーソンは、「国民とはイメージとして心に描かれた想像の政治共同体である」と述べています。これは衝撃的な一節で、この文の「国民」という言葉を「日本人」という言葉に置き換えて読んでみると、その内容に驚かされるのではないかと思います。つまり、「日本人とはイメージとして心に描かれた想像の政治共同体である」という風に。これを読むと、大抵の人が「えっ、日本人というのは実在しているのではなく、人々の想像の中にイメージとして描かれているだけなのか?!」と従来の思考が揺さぶられることでしょう。

普通、日本人というと、ある程度の一般的な特徴を持った民族としての認識があって、そういうものが想起されるものです。こういう考え方は、ある対象を決定的な特質=本質とされる1つないし複数の要素に還元して説明しようとするもので、本質主義(essentialism)と呼ばれています。

これに対して、アンダーソンのアプローチは、「心に描かれた」という動詞が使われており、「日本人」を既にある何者かとしてではなく、作られていく過程にある何者かとして捉えようとしています。こういう考え方を構築主義(constructionism)と言います。

前者の本質主義の考え方に従って日本人を定義してみると、例えば、次のような3つの規定の仕方が考えられます。1. 日本人とは、礼儀正しく、和を重んじる人々である。(文化的規定) 2. 日本人とは、日本史の教科書に書かれた人々のことである。(歴史的規定) 3. 日本人とは、日本国籍を持つ人々のことである。(法律的規定)

しかし、この3つの規定を構築主義的な観点から批判的に検証してみると、次のような反証が成り立ちます。

1. 文化的規定:平均的な日本人について語るためには、既に日本人とは誰なのかがあらかじめ決められていることが前提になります。

2. 歴史的規定:現在の日本史の教科書は、縄文時代の日本列島の記述から始まりますが、縄文時代に今の日本列島に住んでいた人々を「日本人」と呼びうるだろうか? 彼らに「あなたは何人ですか?」と聞いてみればいい。しかし、その場合にも、一体何語で聞けばいいのだろうか?

3. 法律的規定:法律は「日本人」とは何かという問いについて、とても明快な規定を用意しています。つまり、日本国籍を持ち、日本のパスポートを持つことができる人物という定義です。ここには帰化した外国出身の人も含まれます。しかし、私たちの常識的な感覚から言えば、そういう人たちを同じ日本人として認識するということはなく、日本国籍を取得した外国人という捉え方をするものです。ここで、「法律的規定は必要条件だが、十分条件ではない」とした上で、日本語が上達して、上手な日本語を話す外国人や、長く日本で暮らしている外国人について考えてみると、ここでも、「上手な日本語を話す外国人」以上の存在になれるのだろうか、長く日本に住んでいるとは、どのくらいの期間だろうかという疑問が湧いてきます。

アンダーソンが、このようなことに問題意識を持ち、ナショナリズムというテーマに向き合うようになったのには、アイルランドとイギリス、カトリックとプロテスタント、中国と大英帝国、イギリスのエリート教育とアイルランド人意識といった幾重にも折り重なるアイデンティティの物語が大きく影響していたのです。

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posted by 平井和也 at 23:12| Comment(0) | 読書 学術 書籍 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年03月15日

山本紀夫著『天空の帝国インカ』

今回取り上げるのは、インカ帝国の歴史について書かれた山本紀夫著『天空の帝国インカ』(PHP新書)です。著者である山本紀夫氏は国立民族学博物館名誉教授であり、40年以上にわたってアンデス高地の歴史や人々の暮らしについて学術調査を行っている民族学者であり、人類学者です。

私がこの本を読んでみたいと思ったきっかけは、先月の下旬にBSアーカイブスで再放送(初回放送は2001年)されたペルーの山岳鉄道の旅を取り上げた番組を見たことでした。作家の関川夏央さんがペルーの山岳鉄道に乗って、かつてインカ帝国が栄えたマチュピチュまで行くという内容でした。

この番組でかつてのインカの栄華を感じさせるマチュピチュの神秘的で壮大な光景や、ペルーの人たちの暮らしぶりを見て、改めてインカ帝国について知りたいと思いました。

この『天空の帝国インカ』は、著者である山本紀夫氏の人類学的、民族学的なフィールド・ワークに基づく知見を中心にして、考古学や歴史学、地理学、生態学、農学などの関連分野の研究成果も参照しながら、当時のインカの人々の暮らしについて論述したものです。

この本を読むと、様々な分野の研究に基づいて、インカ帝国の実態がかなりの程度まで解明されてきているということがわかります。また、山本氏自身の学術調査に基づく人類学的な考察から、インカのエリート層だけではなく当時の一般の庶民の暮らしの実態が詳細に綴られており、彼らの精神世界の話は、歴史推理小説を読んでいるかのような歴史のロマンを感じさせる、心躍るものでした。

以下に、本書の中から主なポイントと考えられる内容をまとめてみました。

世界最長のアンデス山脈は南米大陸の太平洋岸に沿って南北に約8,000キロメートルの長さにわたって細長く走る大山脈で、標高6,000メートルを超える高峰もある。この長さは、日本列島の本州を6つから7つつなぎ合わせたくらいのものだ。こういう細長い形を特徴とするアンデスは、緯度によって北部アンデス、中央アンデス、南部アンデスという大きく3つの地域に分けられる。緯度が低ければ低いほど、一般的に言って気温は高くなる。そのため、低緯度地帯は熱帯あるいは亜熱帯圏となり、北部アンデスや中央アンデスはこのカテゴリーに入る。ただ、この熱帯圏には6,000メートルに及ぶ大きな高度差を持つ山岳地帯があるため、標高の高いところでは寒帯や氷雪地帯も見られる。このように中央アンデスが低緯度地帯に位置することによって、富士山の頂上と同じくらいの高地でも気候は1年を通して比較的温暖だ。

また、標高が高いと住みにくいのではないかと考えている人が多く、海抜3,000メートルを超す高地で生まれたインカ帝国のことが驚異的な謎だとされがちだが、実際にはそうではない。インカ帝国の中心地だったペルーのクスコは、海抜3,400メートルの高さに位置し、当時約20万人の人口を擁する南米最大の都市だった。高地に位置するということには、疫病をもたらす媒介蚊が発生しにくいことや、交通路が制限されているために外界からの流入者を防ぎやすいという利点もあり、高地は健康地だという側面もある。

日本ではよくインカ帝国は古代帝国とか古代文明という言葉で表されるが、インカ帝国が栄えた15世紀は日本の室町時代に当たり、日本史に照らし合わせると、インカ帝国は近世と言っていいほど比較的新しい時代のことだった。また、インカ帝国はアンデス文明と同一視される傾向があり、これも誤解の原因になっている。アンデスに人類が初めて姿を現したのは今からおよそ1万年前のことであり、インカ族が勢力を広げ、中央アンデス全域を支配下に置き、隣接地域も征服し、最盛期を誇ったのは、15世紀からわずか100年ほどのことだった。つまり、数千年に及ぶアンデス文明の歴史の中で、インカ帝国はほんの一部にすぎない。

インカの人々は、トウモロコシやジャガイモを主に食用として栽培し、灌漑技術と階段耕作という2つの大きな特徴ある栽培技法を使っていた。灌漑は海岸地帯で古くから行われていたが、階段耕作は山岳地帯に限られ、山岳地帯に多い斜面を階段状にして、そこを耕地とする方法だ。そういう栽培の中でも、インカの人々は特にトウモロコシ栽培に強い執着を持っており、ここには非常に重要な意味がある。つまり、インカの人々にとって、トウモロコシは食料としてよりも、むしろチチャという名前で知られる儀礼や祭りに使われる酒の材料として欠かせないものだった。インカの国家宗教である太陽信仰の総本山だった「太陽の神殿」で造られたチチャ酒は、インカ王自身が最高の神官となって太陽に捧げられる祭りである「太陽の祭典」のために使われた。この祭りは、インカ帝国最大の荘厳な祭りだった。この祭りで、チチャ酒は、太陽神との交流のために消費された。また、当時の再分配経済の中で、インカ王や地方の首長たちは、再分配の時の贈り物とともにチチャ酒を気前よくふるまうことによって、人々の支持を集め、自らの権威を高めていた。さらに、各地の異民族との間の緊張関係を避けたり、解いたりするためにも、インカ王はチチャ酒をふるまって、富の分配に利用した。実際、考古学者によると、インカ以前の中部高地で政治的緊張の高まりとともに、チチャ酒の製造が増加しているという報告もある。

インカ帝国の滅亡から500年の年月が流れた現在でも、アンデス農民の間でチチャ酒は重要な存在だ。農作業を手伝ってくれた人たちにチチャ酒がふるまわれ、老若男女を問わず皆で飲む。その時、自分が飲む前には必ず大地にも飲んでもらう。彼らは、大地には農耕の神様パチャママがいると信じており、大地に対してコップを傾け、地面に酒をこぼして捧げる。

さらに、インカの文化の中でもう1つ重要なのが、ワカ信仰と呼ばれる古い時代からの信仰だ。インカ時代のアンデス住民は、太陽、稲妻、海、山、丘、大地、泉、川などを信仰の対象としており、これらを「ワカ」と呼んで崇拝していた。

また、自然界、生物界に生じた特異なものや異常な形態をしたものなどに特別な関心を持ち、神聖視し、崇拝していた。双生児の母親や逆子、手や足に指が6本ある者など、「通常の成り行きから逸脱」したものに、特別な力や神秘的な力を見出していた。これは食べ物にも言えることで、例えば、果穂の一部が割れていたり、途中から二重または三重になったりしている異常な形をしたトウモロコシを「サラママ」(インカのケチュア語で「トウモロコシの神様」の意味)と呼んでいた。このサラママは大地の神であるパチャママへの贈り物であり、収穫したトウモロコシのお守りと考えられていた。これは、インカ以前の時代に作られた数多くの土器や織物類などにも見られ、異常な形をした人物や作物、家畜などをモチーフにしたものがある。

このような「異形」なものを神聖視するワカ信仰の中でも、インカ帝国の中心地だったクスコに足を踏み入れた征服者たちを非常に驚かせたのが、ミイラとインカ貴族のオレホンと呼ばれる大きな耳だった。インカ王のミイラについて、スペイン人ピサロは不快感と驚きをこめて次のように記述している。

「このクスコにいた人々を見ると、驚きを感ずる。彼らの大部分が(中略)死者たち(ミイラ)に仕えていて、毎日それを広場にかつぎ出し、それぞれ古さにしたがってきちんと並べて、そこで男女の使用人が飲み喰いした」

また、アコスタによると、「王や貴族の遺体は、悪臭や腐敗なしに」そっくりそのまま保存され、「完全な姿のまま、肌も艶々としているのを見て、人々は驚いた」と記述している。

また、インカ王や貴族は、貴性の印として、耳に穴をあけて金などの図柄をはめ込んでいて、そのために耳が大きくなっていたので、スペイン人は彼らを大耳を意味する「オレホン」と呼んでいた。

このように、インカ帝国では自然界にある異形だけではなく、ミイラやオレホンのような人間が手を加えて積極的に異形的なものを生み出していた。ミイラやオレホンもインカのエリート層に限られていたことから、異形と高貴性は強く結びついていた。異形的なものは神様と言っても過言ではなかった。

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posted by 平井和也 at 18:44| Comment(0) | 読書 学術 書籍 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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