2012年09月08日

渡辺靖著『アメリカン・デモクラシーの逆説』

前回のブログ更新からだいぶ間隔があいてしまいましたが、今回このブログで取り上げる書籍は渡辺靖著『アメリカン・デモクラシーの逆説』です。

著者である渡辺靖氏は文化人類学を専門とし、米国研究を行っている慶應義塾大学教授です。

渡辺教授は文化人類学のフィールドワークを先進国である米国研究に採り入れている点がユニークであり、本書は著者自身のフィールドワークに基づいた米国研究の結果を綴った内容です。

米国の社会を固定的・断定的に論じることなく、常に変化し続けている米国社会のダイナミズムを著者自身の現地取材に基づいて論じており、資料や文献ばかりに引きずられることのないバランスの取れた内容という印象を受けました。

著書の「あとがき」で、渡辺教授は、本書の執筆にあたって特に意識したのは、米国のどこかで本書を読んでくれるかもしれない若い世代の人たちにとって腑に落ちる論を展開することだったと書かれていますが、実際に読んでみると、著書全体にそういう謙虚さが感じられると思います。

全部で5章に分けられており、全ての章の内容を紹介していたらきりがなくなってしまうので、本ブログでは私が特に注目した第2章と第5章について以下にまとめてみました。

まず第2章ですが、この章では「超資本主義」(supercapitalism)という概念について注目してみました。

この言葉は、クリントン政権の労働長官を務めたリベラル派の経済学者であるロバート・ライシュ氏が『暴走する資本主義』の中で提示したものです。この概念は、具体的には次のようなものです。

自由貿易・規制緩和・民営化が加速した1970年代半ば以降の「超資本主義」は「消費者」や「投資家」としての選択肢を豊かにしてきた側面もある一方で、「労働者」や「市民」としての権利が蔑ろにされている面もあり、その点が危惧される。その上で、ライシュ氏は、「民主主義には中央権力から独立した民間の経済的権力が必要だ」と説く一方で、「超資本主義は、政治の世界まで溢れ出て、民主主義を飲み込んでしまった」と警告している。

この「超資本主義」は政治や経済など様々な面にマーケティングの論理を浸透させていくという働きをしています。実際、選挙戦がゲーム化しており、選挙戦での集票戦術として綿密なマーケティングの手法が用いられているといいます。具体的には、次のようなものです。

1990年代半ば以降、洗練された世論サンプリング技術や大型データベースを駆使した有権者の構成分析が行われ、特に激戦州における無党派層のマーケットを開拓することが政治的目的になっている。民主、共和両党が有権者登録をしている2億人の8割以上に関する個人情報を既に取得している。氏名、年齢、性別、学歴、職業、収入、住所、人種、エスニシティ、宗教、家族構成、投票歴といった基礎情報はもちろんのこと、好みのアーティスト、休暇で行く場所、乗用車の種類など、400種類以上の情報が登録されている。国勢調査や各種年金情報、有権者登録リスト、投票記録、戸別訪問で得たデータなどを連動させることで、ターゲットに合わせて戦術を最適化し、選挙運動のコストを抑えることを可能にしている。

アル・ゴアが自らの上院議員選挙に立候補した経験に基づいて著書『理性の奪還』の中で書いている内容によると、選挙運動顧問が打ち出した方針は、次のような驚くほど具体的なものだったといいます。つまり、「もしこの広告をこれだけの量で打ち、ブッシュ候補が予想通りの反応をし、さらにわれわれがこの量のテレビ広告で彼の返答に対するわれわれの返答を放送すれば、結果として3週間後の支持率調査でわが方のリードは8.5パーセント増加となるでしょう」

すると、なんと3週間後には、ゴアのリードは本当に8.5パーセント増加したというのです。

このような「超資本主義」の論理と力学はメディアの世界にも広がっており、1980年代まで規制されていた企業によるメディア買収が可能になった。その結果、地上波、ケーブル、衛星放送ネットワークなどが少数の巨大企業の下に集中する現象が顕著になった。

また、コスト削減や競争激化に加えて、多チャンネル化やインターネットの普及などメディアを取り巻く環境は激変している。その結果、ニュース・サイクルが極端に短縮され、情報の確認や分析に十分な時間をかける余裕が奪われた。そのため、権力監視のための調査報道が敬遠され、個人的な評論や憶測、討論番組の占める割合が高くなった。

こうした権力監視の機能が低下する中で直面したのが2001年の同時多発テロだった。その圧倒的な衝撃の前に、米国のメディアが客観的で公正な報道の原則を踏み外し、感情的で愛国的な報道に走ったという批判が国内外で沸き上がった。慎重な対応を促すメディアもあったが、そのほとんどは米国のイラクへの武力攻撃に対する国際的支持を求めるもので、攻撃そのものの根拠や妥当性を疑う大手メディアは皆無に等しかった。

さらに、近年、米国ではインターネットの台頭や景気低迷による広告収入の減少のあおりを受けて、統廃合されるメディアが地方を中心に相次いでいる。その結果、地方の政治取材の現場では、民意を把握する手段として、サンプル数の少ない安価で簡易な世論調査の占める割合が増大しつつある。その中で、地元に精通した記者による丹念な取材報道よりも、日々の世論調査が主導権を握ることへの懸念が高まっている。

そうした中で、近年の米国では、新たな試みとして、インターネットを使ったオルターナティブ・メディアや調査報道を専門とする非営利の報道機関が出現している。具体的には、政治専門のニュース・サイト「ザ・ハフィントン・ポスト」や「ポリティコ」、個人ブログを用いた保守系の「ドラッジ・レポート」、リベラル系の「デイリー・コス」といったメディア、調査報道専門の非営利報道機関として、「プロパブリカ」、「ボイス・オブ・サンディエゴ」などがある。

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posted by 平井和也 at 05:34| Comment(0) | 読書 学術 書籍 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年04月22日

酒井啓子著『<中東>の考え方』

今回取り上げる酒井啓子著『<中東>の考え方』という本は、中東という地域についてある程度まとまった知識を得るために適した本だと思います。中東の歴史や各国、各地域の特徴、欧米諸国とのかかわりや現在の状況を知るための必須事項がコンパクトにまとめられています。この本を読むと、一般的に「中東」という名前で呼ばれている地域が、国際政治のダイナミズムのど真ん中で、大国の思惑に左右されながら、大国との利害関係を戦略的に考えながら生きてきた歴史がよくわかります。以下に、大きく3つのポイントについてまとめてみました。

●中東地域の欧米とのかかわり

「中東」が地理的には「東」ではないが「東」と呼ばれている理由は、大英帝国がアジア進出の過程でこの地域をMiddle Eastと呼び、その直訳からきている。この単語が最初に出てきたのは、1902年に米国の戦略理論家であるマハンが、大英帝国の戦略拠点としてペルシア湾岸地域を指して使ったことだった。同時期の著名な英国のジャーナリストであるチロルは、これにアフガニスタンからチベットまでを加えている。また、「近東(Near East)」は、だいたいオスマン帝国の領域に一致して使われた。

ヨーロッパの世界戦略策定の過程で、「中東」、「近東」と名付けられたその「東」とは、「オリエント」、つまり、ヨーロッパではないが、ヨーロッパに隣接する「異国」という意味合いがある。ヨーロッパにとっては「中東」は、ヨーロッパ本土と植民地インドをつなぐ途中経路だった。が、20世紀初頭まで地中海の対岸にはオスマン帝国が、ペルシア湾北岸にはペルシア帝国が君臨していた。そういう状況の中で、大英帝国が対インド支配を盤石にするために目をつけたのが、アラビア半島とインドの間の海洋安全保障だった。大英帝国は、アラビア半島中央部から海岸部に移住した諸部族の抗争を利用して、一部の部族長と手を結ぶという戦術を採った。

大英帝国にとって、こういう協定を結ぶのは、インドの遠い対岸であるアラビア半島東岸を手中にするという意味で重要な戦略拠点の確保だったが、同時に締結相手にとってもメリットがあった。つまり、勢力が拮抗する中小部族が抗争を繰り返していたところに、圧倒的な政治力と軍事力を持った大英帝国という大国が現われ、その国と手を組むことによって、地方の一部族が一国を支える首長家に格上げされたのだった。

このような中で、「メッカ、メディナというイスラム教徒にとって最も重要な聖地2つを護衛する者である」と自らを謳う「イスラムの盟主」であるサウジアラビアでは、大英帝国との間で不協和音が鳴っていたが、そこに目をつけたのが米国だった。米国と中東とのかかわりは遅く、米国が政府として中東地域に政治的・経済的な関与を強めたのは20世紀に入ってからのことだった。米国務省に「近東局」が設置されたのは1909年のことだった。当時、新興国だった米国が狙っていたのは、どうやってヨーロッパ列強諸国の中東に対する独占的な支配に食い込むかということだった。

その中でも米国にとって最大の問題は、中東の石油資源にいかにアクセスするかということだった。ペルシアで油田が発見され、英国人実業家のW・ダーシーが利権を得てアングロ・ペルシア石油会社を設立したのが1909年で、その後、今のイラクのキルクークでも油田が発見され、イラン、イラクの石油利権は英仏に独占された。

そこで米国企業は、英仏独占地域の外に油田を見つけられないかと考えたのだった。カリフォルニア・スタンダード社(後のシェブロン)は、バーレーンで油田を掘り当て、続いて1933年にサウジアラビアから石油利権を得た。そこから米国とサウジアラビアの蜜月が始まった。サウジアラビアの石油開発を一手に引き受ける米合弁会社アラムコは、東部州ダーランで超巨大油田を開発し、世界最大のラス・タンヌーラ製油所を建設し、サウジアラビアの石油産業を作り上げていった。

第二次世界大戦末期には、米国政府はエネルギー資源確保のために、サウジアラビアからの石油供給の安定化を自国の死活問題と認識するようになり、1951年にはダーラン空軍基地の使用を含めた米国とサウジアラビアの軍事協力関係を定めた相互防衛援助協定が締結された。さらに、米国にとってサウジアラビアとの関係構築の上で重要だったのが、冷戦によってソ連がこの地域に南下し、油田地帯を脅かすことに対する恐れだった。

●アラブ民族主義とシオニズム

前回のブログで、ベネディクト・アンダーソンが提唱した「国民とはイメージとして心に描かれた想像の政治共同体である」という言説について取り上げましたが、『<中東>の考え方』の中に記述されているアラブ民族主義とシオニズムの解説を読むと、アンダーソンが提示した「想像の共同体」という概念が体現された好例だということが強く感じられました。その内容をまとめると、次のようになります。

そもそもアラブ人とは何か? 『岩波イスラム辞典』によると、「自分もしくは先祖がアラビア半島出身であると意識してアラビア語を母語とし、先祖たちならびにイスラムが築いてきた文明的遺産を誇り、継承しようとしている人びと」と定義されている。ただ、ここで混同されがちだが、同じ中東でイスラム教徒が人口の大半を占めていても、ペルシア語を公用語とするイラン、トルコ語を公用語とするトルコは「アラブ」ではない。一方で、アラブ人が「イスラムが築いてきた文明的遺産を誇る」といっても、アラブ人=イスラム教徒だというわけでもない。シリアやレバノン、パレスチナ、エジプトといった東地中海沿岸地域や、イラク北部にはキリスト教徒のアラブ人が多く、イスラエル建国以前は、モロッコやイラク、イエメンに多くのユダヤ教徒が住んでいた。

そのアラブ人たちの間で「アラブ民族はひとつ」という思想が具体的な政治構想を持って動き始めたのは、第一次世界大戦の頃だった。大英帝国が第一次大戦に勝つために、オスマン帝国を内部から切り崩そうとしてメッカの太守フサインを後押しし、彼らにアラブの独立を約束する(フサイン・マクマホン協定)一方で、ユダヤ人に建国の約束をし(バルフォア宣言)、実際にはオスマン帝国の領土を英仏露の三国協商で分割統治するサイクス・ピコ協定を結ぶという三枚舌外交を展開した。この時期アラブ人たちが民族意識を高めていった背景には、西欧列強の進出が決定的な意味を持っていた。

そういう中で第一次世界大戦が勃発し、「アラブの独立」を約束したはずの大英帝国はフランスと共にオスマン帝国の領土の山分けを進めたのだった。アラブ人の住む領域は小分けにされ、英仏によって直接、間接に統治された。英仏の支配下に置かれたことへの反発に加えて、この「小分け」がアラブ人たちのさらなる反感を買った。彼らの住む世界には、軽々と境界を越えて移動できる広がりを持った「ウチ」意識が共有されていたが、国境によって隔てられ、それぞれ「イラク」や「ヨルダン」といった歴史的にあまり馴染みのない地名を冠した人工的な国に分けられてしまったのだった。

ここにアラブ民族主義が出現した。キリスト教徒であれイスラム教徒であれ、「アラブ民族」はひとつであるべきであり、そのひとつになったアラブ民族が西欧の支配と分断を乗り越えれば繁栄を実現できるはずだ、という思想的な機運が生まれた。

その一方で、アラブの分割と共に、第一次大戦中に英国が行った政策の中で後世に禍根を残す結果になったのが、バルフォア宣言だった。1917年に英国外相のアーサー・バルフォアが、ユダヤ人の「民族的郷土」をパレスチナにつくることに合意する書簡を在英ユダヤ人の名士であるウォルター・ロスチャイルドに宛てて出した。しかし、アラブ側はパレスチナの土地はフサイン・マクマホン協定で独立を約束されたアラブ王国の一部だと考えており、ここでパレスチナの土地がユダヤ人とアラブ人の間で争われることになった。

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posted by 平井和也 at 16:57| Comment(0) | 読書 学術 書籍 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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