2013年04月20日

小川和久著『もしも日本が戦争に巻き込まれたら!』

久々の読書ブログ更新ですが、今回選んだのは小川和久著『もしも日本が戦争に巻き込まれたら! 日本の「戦争力」vs. 北朝鮮、中国』です。

著者である小川和久氏は、国際変動研究所の理事長であり、現在は静岡県立大学の特任教授も兼任しています。本書は北朝鮮と中国の情勢に焦点を当てて、戦略論を展開しており、軍事や国際情勢について豊富な専門知識を持つ小川さんの主張にはたいへん説得力があると感じます。ほんの200ページ程度の本ですが、軍事や国際情勢に関する深く鋭いインテリジェンスが詰まっており、必読の1冊だと思います。

本ブログでは、北朝鮮編のポイントを以下にまとめてみました。

そもそも話の出発点として、北朝鮮は本当に脅威なのか? 新聞であれ、テレビであれ、官僚であれ、学者であれ、北朝鮮の脅威をいたずらに騒ぎ立てる者は「北朝鮮の手先」同然だ。多くの日本人はマスコミその他が流す北朝鮮脅威論に影響されて、恐ろしいと思い込んでいる。

日本国内で北朝鮮の脅威を煽れば煽るほど、日本国民はビビってしまう。そして日本人が北朝鮮を怖れれば怖れるほど、日本の北朝鮮に対する外交的な立場は弱くなる。すると、北朝鮮は労せずして外交的な優位に立つ結果となる。これは明らかに北朝鮮を利する行為だ。

日本の北朝鮮に関する議論は「木を見て森を見ず」になっている。世界という森の中で北朝鮮はどのような木として生えているのか。森いちばんの大木である米国、かなり大きな木である日本、あるいは周囲に生えている中国や韓国やロシアはどうなっているのか。そういう全体を見れば、北朝鮮は世界という大きな森の端っこに立つ貧相で枯れかかった小木にすぎないことがわかる。情緒的な脅威論に代わるべきは、北朝鮮の軍事的な現状を理性的な目で見て、その等身大の姿をつかみ、安全な国にしていくことだ。

では、北朝鮮の軍事力とはどんなものなのか? それは端的に言えば、「質より量」を重視したバランスの悪い軍隊で、特に陸軍が圧倒的に多くなっている。しかし、現代の戦争では、巨大な陸軍がいればどうにかなるというものではない。どんな陸軍でも、強力なエアカバー(空からの攻撃と支援)がなければ戦えない。

北朝鮮の航空戦力を見ると、大きな問題があることがわかる。現代の航空戦では、航空機を効果的に作戦行動させるにはまずAWACS(空中警戒管制機)が不可欠だが、北朝鮮は1機も持っていない。空中で長時間作戦行動するためには空中給油機も不可欠だが、これも1機も持っていない。

しかも、北朝鮮の作戦用航空機580機の90%以上は半世紀前の1960年代前後に旧ソ連で開発された代物で、旧式な上に整備状態も悪く、ポンコツだらけだ

その上、財政事情が悪く、燃料が買えないため、飛行訓練が十分にできない。北朝鮮空軍のパイロットは10年間に35時間しか飛べない、という亡命軍人の証言もある。対して、韓国空軍のパイロットの飛行時間は年間200時間以上、航空自衛隊でも150時間以上になる。トム・クルーズ主演の映画で有名になったトップガン(米海軍のエリート・パイロット)は年間400時間以上も飛行する。

北朝鮮空軍が朝鮮半島の制空権を維持できないことは、陸軍の作戦遂行能力にも大きく影響する。その陸軍は戦車の数でこそ確かに韓国の1.5倍だが、中身を見ると、「軍事博物館なみ」の旧式モデルのオンパレードだ。北朝鮮戦車の最新型は旧ソ連崩壊時に購入したT72を改良したもので、主力は旧ソ連が1962年に第一線に配備したT62戦車だ。さらに、なんと第二次世界大戦でドイツ軍相手に大活躍したT34まで顔を揃えている。

対する韓国陸軍の戦車は、国産のK1が1420両、ロシア製T80が80両、米国製M48が850両、M47が400両という陣容だ。120両ある在韓米軍のM1戦車は世界最強だ。

北朝鮮の海軍は、フリゲート艦3隻、潜水艦23隻、高速ミサイル艇など沿岸用艦艇387隻、魚雷艇173隻、哨戒艇166隻という陣容だ。大半は老朽化した小型艦艇で、現代の海戦を戦うシステムを持っていない。このように北朝鮮の軍事力は陸、海、空のどれをとっても韓国軍、米軍に大きく見劣りする。

さらに、実は我々日本国民は、北朝鮮の現実的な脅威に対して、その軍事的な暴走を抑止する極めて効果的なシステムを既に2つ持っている。1つは日米同盟で、もう1つは国連軍だ。

日米同盟の根本は、言うまでもなく日米安全保障条約だ。その第5条と第6条の内容を簡単に言えば、「もし北朝鮮が日本を武力攻撃すれば、米国はその攻撃を米国に対する攻撃と見なして北朝鮮に反撃する。そのような事態を想定する米国は日本に駐留する」ということになる。

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posted by 平井和也 at 19:19| Comment(0) | 読書 学術 書籍 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年12月07日

黒田龍之助著『はじめての言語学』

今回の読書ブログのテーマは、黒田龍之助著『はじめての言語学』です。著者である黒田龍之助氏は、スラヴ語学、言語学を専門とし東京工業大学助教授、明治大学助教授などを経て、現在はフリーランスの語学教師をしているというユニークなバックグラウンドを持った人物です。

本書は、著名な言語学者の学説や専門用語を使わずに言語学について解説している点が大きな特徴と言えます。言語学について説明する場合には、ソシュールやチョムスキーといった言語学者の学説を中心に語るのが普通ですが、本書では書籍の紹介の中で簡単に触れているだけで、言語学の解説には専門用語は全くと言っていいほど出てきません。

全部で第6章まである中で、第2章で解説されている言語学にとっての言語とは何かというテーマについて、以下にまとめてみました。

人間が言語を使用する目的はお互いにコミュニケーションをとることだ。では、言語学でいうコミュニケーションとは何なのか? 一言で言えば、コミュニケーションとはメッセージを伝えることである。

このメッセージを伝えるという意味では、言語以外にも、例えば、身振りや話し方といったものもメッセージを伝えているわけであり、コミュニケーションと考えることができる。言葉によらないコミュニケーションもある。ジェスチャーや表情といった動作、抱き合ったり握手したりする行動、相手との距離、服装や身につけている装飾品や化粧品、肌の色、室内の照明や温度など様々なものが考えられる。

こういったものの中には、無意識のうちに発しているメッセージもある。話し方や服装などは、本人にはそのつもりがなくても、相手がある印象を受けるものだ。つまり、コミュニケーションには意図的なものと非意図的なものとがあり、そういうものを総合的に判断しながら、人間はメッセージを送ったり受け取ったりしている。

その中でも、言語は特別な位置を占めている。では、言語とは何か? 言語とは、記号の体系である。

では、言語学でいう記号とは何か? 記号とは、何かを指示している代用物のことである。その中に言語記号というものがある。言語学では、言語記号について形と意味からできていると定義されている。

次に体系とは何か? 意味を持った音のかたまりである言語記号は、バラバラに存在しているのではない。バラバラだったら、コミュニケーションができない。言語記号が結びつく時には、法則がある。例えば、次の例文をもとに考えてみる。

久美子 は コンビニ で おにぎり を 買う。

この文は、語の並べ方を変えてもほとんど同じ意味の文がいくつかできる。

久美子 は おにぎり を コンビニ で 買う。
コンビニ で 久美子 は おにぎり を 買う。
おにぎり を 久美子 は コンビニ で 買う。

しかし、これらの文を次のように並べ換えると、意味不明になってしまう。

久美子 は おにぎり で コンビニ を 買う。
おにぎり は コンビニ で 久美子 を 買う。
コンビニ は 久美子 で おにぎり を 買う。

さらに、次のようになったらどうか?

で を コンビニ 買う は 久美子 おにぎり。

こうして見ると、言語記号を並べるには法則があることがわかる。それぞれの記号には決められた役割があるので、それを乱してしまうと、いくら一つ一つの言語記号にしっかりとした形と意味があっても、理解不能になってしまう。つまり、そこには体系があるということだ。

体系とは、一つ一つの要素が役割分担をしながら、全体としてまとまった働きをすることだ。

上の例文では、分かち書きをしたが、その場合、意味のまとまりごとに切っていく。つまり、文は意味のまとまりごとに分けられるのである。

この意味のまとまりである語は、どれも音からできている。上の例文の語をアルファベットで表わすと、次のようになる。

久美子 →k-u-m-i-k-o 6つの音
は →w-a 2つの音
コンビニ→k-o-n-b-i-n-i 7つの音
で →d-e 2つの音
おにぎり→o-n-i-g-i-r-i 7つの音
を →0 1つの音
買う →k-a-u 3つの音

まとめると、次のようになる。

文は語からできている。(第一段階)
語は音からできている。(第二段階)

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posted by 平井和也 at 16:28| Comment(0) | 読書 学術 書籍 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年09月08日

渡辺靖著『アメリカン・デモクラシーの逆説』

前回のブログ更新からだいぶ間隔があいてしまいましたが、今回このブログで取り上げる書籍は渡辺靖著『アメリカン・デモクラシーの逆説』です。

著者である渡辺靖氏は文化人類学を専門とし、米国研究を行っている慶應義塾大学教授です。

渡辺教授は文化人類学のフィールドワークを先進国である米国研究に採り入れている点がユニークであり、本書は著者自身のフィールドワークに基づいた米国研究の結果を綴った内容です。

米国の社会を固定的・断定的に論じることなく、常に変化し続けている米国社会のダイナミズムを著者自身の現地取材に基づいて論じており、資料や文献ばかりに引きずられることのないバランスの取れた内容という印象を受けました。

著書の「あとがき」で、渡辺教授は、本書の執筆にあたって特に意識したのは、米国のどこかで本書を読んでくれるかもしれない若い世代の人たちにとって腑に落ちる論を展開することだったと書かれていますが、実際に読んでみると、著書全体にそういう謙虚さが感じられると思います。

全部で5章に分けられており、全ての章の内容を紹介していたらきりがなくなってしまうので、本ブログでは私が特に注目した第2章と第5章について以下にまとめてみました。

まず第2章ですが、この章では「超資本主義」(supercapitalism)という概念について注目してみました。

この言葉は、クリントン政権の労働長官を務めたリベラル派の経済学者であるロバート・ライシュ氏が『暴走する資本主義』の中で提示したものです。この概念は、具体的には次のようなものです。

自由貿易・規制緩和・民営化が加速した1970年代半ば以降の「超資本主義」は「消費者」や「投資家」としての選択肢を豊かにしてきた側面もある一方で、「労働者」や「市民」としての権利が蔑ろにされている面もあり、その点が危惧される。その上で、ライシュ氏は、「民主主義には中央権力から独立した民間の経済的権力が必要だ」と説く一方で、「超資本主義は、政治の世界まで溢れ出て、民主主義を飲み込んでしまった」と警告している。

この「超資本主義」は政治や経済など様々な面にマーケティングの論理を浸透させていくという働きをしています。実際、選挙戦がゲーム化しており、選挙戦での集票戦術として綿密なマーケティングの手法が用いられているといいます。具体的には、次のようなものです。

1990年代半ば以降、洗練された世論サンプリング技術や大型データベースを駆使した有権者の構成分析が行われ、特に激戦州における無党派層のマーケットを開拓することが政治的目的になっている。民主、共和両党が有権者登録をしている2億人の8割以上に関する個人情報を既に取得している。氏名、年齢、性別、学歴、職業、収入、住所、人種、エスニシティ、宗教、家族構成、投票歴といった基礎情報はもちろんのこと、好みのアーティスト、休暇で行く場所、乗用車の種類など、400種類以上の情報が登録されている。国勢調査や各種年金情報、有権者登録リスト、投票記録、戸別訪問で得たデータなどを連動させることで、ターゲットに合わせて戦術を最適化し、選挙運動のコストを抑えることを可能にしている。

アル・ゴアが自らの上院議員選挙に立候補した経験に基づいて著書『理性の奪還』の中で書いている内容によると、選挙運動顧問が打ち出した方針は、次のような驚くほど具体的なものだったといいます。つまり、「もしこの広告をこれだけの量で打ち、ブッシュ候補が予想通りの反応をし、さらにわれわれがこの量のテレビ広告で彼の返答に対するわれわれの返答を放送すれば、結果として3週間後の支持率調査でわが方のリードは8.5パーセント増加となるでしょう」

すると、なんと3週間後には、ゴアのリードは本当に8.5パーセント増加したというのです。

このような「超資本主義」の論理と力学はメディアの世界にも広がっており、1980年代まで規制されていた企業によるメディア買収が可能になった。その結果、地上波、ケーブル、衛星放送ネットワークなどが少数の巨大企業の下に集中する現象が顕著になった。

また、コスト削減や競争激化に加えて、多チャンネル化やインターネットの普及などメディアを取り巻く環境は激変している。その結果、ニュース・サイクルが極端に短縮され、情報の確認や分析に十分な時間をかける余裕が奪われた。そのため、権力監視のための調査報道が敬遠され、個人的な評論や憶測、討論番組の占める割合が高くなった。

こうした権力監視の機能が低下する中で直面したのが2001年の同時多発テロだった。その圧倒的な衝撃の前に、米国のメディアが客観的で公正な報道の原則を踏み外し、感情的で愛国的な報道に走ったという批判が国内外で沸き上がった。慎重な対応を促すメディアもあったが、そのほとんどは米国のイラクへの武力攻撃に対する国際的支持を求めるもので、攻撃そのものの根拠や妥当性を疑う大手メディアは皆無に等しかった。

さらに、近年、米国ではインターネットの台頭や景気低迷による広告収入の減少のあおりを受けて、統廃合されるメディアが地方を中心に相次いでいる。その結果、地方の政治取材の現場では、民意を把握する手段として、サンプル数の少ない安価で簡易な世論調査の占める割合が増大しつつある。その中で、地元に精通した記者による丹念な取材報道よりも、日々の世論調査が主導権を握ることへの懸念が高まっている。

そうした中で、近年の米国では、新たな試みとして、インターネットを使ったオルターナティブ・メディアや調査報道を専門とする非営利の報道機関が出現している。具体的には、政治専門のニュース・サイト「ザ・ハフィントン・ポスト」や「ポリティコ」、個人ブログを用いた保守系の「ドラッジ・レポート」、リベラル系の「デイリー・コス」といったメディア、調査報道専門の非営利報道機関として、「プロパブリカ」、「ボイス・オブ・サンディエゴ」などがある。

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posted by 平井和也 at 05:34| Comment(0) | 読書 学術 書籍 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年04月22日

酒井啓子著『<中東>の考え方』

今回取り上げる酒井啓子著『<中東>の考え方』という本は、中東という地域についてある程度まとまった知識を得るために適した本だと思います。中東の歴史や各国、各地域の特徴、欧米諸国とのかかわりや現在の状況を知るための必須事項がコンパクトにまとめられています。この本を読むと、一般的に「中東」という名前で呼ばれている地域が、国際政治のダイナミズムのど真ん中で、大国の思惑に左右されながら、大国との利害関係を戦略的に考えながら生きてきた歴史がよくわかります。以下に、大きく3つのポイントについてまとめてみました。

●中東地域の欧米とのかかわり

「中東」が地理的には「東」ではないが「東」と呼ばれている理由は、大英帝国がアジア進出の過程でこの地域をMiddle Eastと呼び、その直訳からきている。この単語が最初に出てきたのは、1902年に米国の戦略理論家であるマハンが、大英帝国の戦略拠点としてペルシア湾岸地域を指して使ったことだった。同時期の著名な英国のジャーナリストであるチロルは、これにアフガニスタンからチベットまでを加えている。また、「近東(Near East)」は、だいたいオスマン帝国の領域に一致して使われた。

ヨーロッパの世界戦略策定の過程で、「中東」、「近東」と名付けられたその「東」とは、「オリエント」、つまり、ヨーロッパではないが、ヨーロッパに隣接する「異国」という意味合いがある。ヨーロッパにとっては「中東」は、ヨーロッパ本土と植民地インドをつなぐ途中経路だった。が、20世紀初頭まで地中海の対岸にはオスマン帝国が、ペルシア湾北岸にはペルシア帝国が君臨していた。そういう状況の中で、大英帝国が対インド支配を盤石にするために目をつけたのが、アラビア半島とインドの間の海洋安全保障だった。大英帝国は、アラビア半島中央部から海岸部に移住した諸部族の抗争を利用して、一部の部族長と手を結ぶという戦術を採った。

大英帝国にとって、こういう協定を結ぶのは、インドの遠い対岸であるアラビア半島東岸を手中にするという意味で重要な戦略拠点の確保だったが、同時に締結相手にとってもメリットがあった。つまり、勢力が拮抗する中小部族が抗争を繰り返していたところに、圧倒的な政治力と軍事力を持った大英帝国という大国が現われ、その国と手を組むことによって、地方の一部族が一国を支える首長家に格上げされたのだった。

このような中で、「メッカ、メディナというイスラム教徒にとって最も重要な聖地2つを護衛する者である」と自らを謳う「イスラムの盟主」であるサウジアラビアでは、大英帝国との間で不協和音が鳴っていたが、そこに目をつけたのが米国だった。米国と中東とのかかわりは遅く、米国が政府として中東地域に政治的・経済的な関与を強めたのは20世紀に入ってからのことだった。米国務省に「近東局」が設置されたのは1909年のことだった。当時、新興国だった米国が狙っていたのは、どうやってヨーロッパ列強諸国の中東に対する独占的な支配に食い込むかということだった。

その中でも米国にとって最大の問題は、中東の石油資源にいかにアクセスするかということだった。ペルシアで油田が発見され、英国人実業家のW・ダーシーが利権を得てアングロ・ペルシア石油会社を設立したのが1909年で、その後、今のイラクのキルクークでも油田が発見され、イラン、イラクの石油利権は英仏に独占された。

そこで米国企業は、英仏独占地域の外に油田を見つけられないかと考えたのだった。カリフォルニア・スタンダード社(後のシェブロン)は、バーレーンで油田を掘り当て、続いて1933年にサウジアラビアから石油利権を得た。そこから米国とサウジアラビアの蜜月が始まった。サウジアラビアの石油開発を一手に引き受ける米合弁会社アラムコは、東部州ダーランで超巨大油田を開発し、世界最大のラス・タンヌーラ製油所を建設し、サウジアラビアの石油産業を作り上げていった。

第二次世界大戦末期には、米国政府はエネルギー資源確保のために、サウジアラビアからの石油供給の安定化を自国の死活問題と認識するようになり、1951年にはダーラン空軍基地の使用を含めた米国とサウジアラビアの軍事協力関係を定めた相互防衛援助協定が締結された。さらに、米国にとってサウジアラビアとの関係構築の上で重要だったのが、冷戦によってソ連がこの地域に南下し、油田地帯を脅かすことに対する恐れだった。

●アラブ民族主義とシオニズム

前回のブログで、ベネディクト・アンダーソンが提唱した「国民とはイメージとして心に描かれた想像の政治共同体である」という言説について取り上げましたが、『<中東>の考え方』の中に記述されているアラブ民族主義とシオニズムの解説を読むと、アンダーソンが提示した「想像の共同体」という概念が体現された好例だということが強く感じられました。その内容をまとめると、次のようになります。

そもそもアラブ人とは何か? 『岩波イスラム辞典』によると、「自分もしくは先祖がアラビア半島出身であると意識してアラビア語を母語とし、先祖たちならびにイスラムが築いてきた文明的遺産を誇り、継承しようとしている人びと」と定義されている。ただ、ここで混同されがちだが、同じ中東でイスラム教徒が人口の大半を占めていても、ペルシア語を公用語とするイラン、トルコ語を公用語とするトルコは「アラブ」ではない。一方で、アラブ人が「イスラムが築いてきた文明的遺産を誇る」といっても、アラブ人=イスラム教徒だというわけでもない。シリアやレバノン、パレスチナ、エジプトといった東地中海沿岸地域や、イラク北部にはキリスト教徒のアラブ人が多く、イスラエル建国以前は、モロッコやイラク、イエメンに多くのユダヤ教徒が住んでいた。

そのアラブ人たちの間で「アラブ民族はひとつ」という思想が具体的な政治構想を持って動き始めたのは、第一次世界大戦の頃だった。大英帝国が第一次大戦に勝つために、オスマン帝国を内部から切り崩そうとしてメッカの太守フサインを後押しし、彼らにアラブの独立を約束する(フサイン・マクマホン協定)一方で、ユダヤ人に建国の約束をし(バルフォア宣言)、実際にはオスマン帝国の領土を英仏露の三国協商で分割統治するサイクス・ピコ協定を結ぶという三枚舌外交を展開した。この時期アラブ人たちが民族意識を高めていった背景には、西欧列強の進出が決定的な意味を持っていた。

そういう中で第一次世界大戦が勃発し、「アラブの独立」を約束したはずの大英帝国はフランスと共にオスマン帝国の領土の山分けを進めたのだった。アラブ人の住む領域は小分けにされ、英仏によって直接、間接に統治された。英仏の支配下に置かれたことへの反発に加えて、この「小分け」がアラブ人たちのさらなる反感を買った。彼らの住む世界には、軽々と境界を越えて移動できる広がりを持った「ウチ」意識が共有されていたが、国境によって隔てられ、それぞれ「イラク」や「ヨルダン」といった歴史的にあまり馴染みのない地名を冠した人工的な国に分けられてしまったのだった。

ここにアラブ民族主義が出現した。キリスト教徒であれイスラム教徒であれ、「アラブ民族」はひとつであるべきであり、そのひとつになったアラブ民族が西欧の支配と分断を乗り越えれば繁栄を実現できるはずだ、という思想的な機運が生まれた。

その一方で、アラブの分割と共に、第一次大戦中に英国が行った政策の中で後世に禍根を残す結果になったのが、バルフォア宣言だった。1917年に英国外相のアーサー・バルフォアが、ユダヤ人の「民族的郷土」をパレスチナにつくることに合意する書簡を在英ユダヤ人の名士であるウォルター・ロスチャイルドに宛てて出した。しかし、アラブ側はパレスチナの土地はフサイン・マクマホン協定で独立を約束されたアラブ王国の一部だと考えており、ここでパレスチナの土地がユダヤ人とアラブ人の間で争われることになった。

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posted by 平井和也 at 16:57| Comment(0) | 読書 学術 書籍 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年04月02日

『ベネディクト・アンダーソン グローバリゼーションを語る』

今回このブログで取り上げるのは、梅森直之編著『ベネディクト・アンダーソン グローバリゼーションを語る』(光文社新書)です。本書には、2005年4月22日と23日の2日間に渡って早稲田大学で行われたベネディクト・アンダーソンの講演の内容がまとめられています。

ベネディクト・アンダーソンは、インドネシア、タイ、フィリピンを中心とする東南アジア研究、ナショナリズムに関する理論的研究で知られる高名な学者であり、コーネル大学政治学部教授です。

私がベネディクト・アンダーソンという学者について初めて知ったのは、もう何年も前に読んだ対談本『ナショナリズムの克服』を通じてでした。この本の中で、「想像の共同体」というキーワードについて語られていて、この言説について初めて知った時には新鮮でした。

『ベネディクト・アンダーソン グローバリゼーションを語る』を読むと、非常に複合的で混交的なバックグラウンドを持つベネディクト・アンダーソンという学者が、その独特の複雑な背景と人生経験に基づいて「ナショナリズム」というテーマを大きな研究の主題に選んだのが必然的な帰結だったということがよくわかります。ベネディクト・アンダーソンの混交的な生い立ちや背景についてまとめると、以下のようになります。

ベネディクト・アンダーソンの父親はアイルランド人で、母親はイギリス人。父親も異種混交的なバックグラウンドを持っている。祖母系の家系は、真正なアイルランドの古いカトリックで、ナショナリスト運動に活発に参加していたことがある。それに対して、祖父系の家系は、17世紀後半に土地を獲得し、徐々に「忠良なイギリス系アイルランド人」になっていった「入植者」で、インドや東南アジアにおける大英帝国の活動のために兵士を供給する家系だった。この2つの家系が1850年頃に混じり合った。また、宗教的にはプロテスタントとカトリックが混合しており、アンダーソン自身、子供の頃は両方の教会に通った。大英帝国の少佐の家に生まれた父親は、生涯の多くを中国で過ごし、アンダーソンも1936年に中国の昆明で生まれた。

太平洋戦争開始の直前に米国に渡り、米国で3年間を過ごした後、1945年にアイルランドに戻ってきた。そこでイギリスのエリート小学校に通い、イギリスで最も有名な高校に行くための奨学金を獲得し、古典古代の研究や近代の言語と文学、ヨーロッパ史を中心に学んだ。その後、ケンブリッジ大学で修士課程を修了し、東南アジア研究が充実していた米国のコーネル大学に渡り、インドネシア専門家を目指した。

1962年にはインドネシアに移住し、2年半滞在した。その間に、スカルノ派と反スカルノ派の動乱が発生し、スハルトが無血クーデターで指導者の地位に就き、1998年まで続く独裁政権が樹立された。この事件はアンダーソンに大きな影響を与えた。というのも、この事件によってアンダーソン自身が国外退去を命じられ、27年間も入国禁止になったからだ。

そのような経験や研究に基づいて、1983年に『想像の共同体』を出版した。この本に対する周囲からの反応の中で興味深いのは、アンダーソンの専門分野である政治学からではなく、人類学や歴史学、文芸批評、カルチュラル・スタディーズといった分野からの批評が行われたということだった。この本は、デリダやフーコーといったフランスの現代思想の影響が明瞭に認められると言われ、アンダーソンはポスト構造主義者、ポストモダン主義者だと評された。ところが、アンダーソン自身は、『想像の共同体』を正真正銘の構造主義的、マルクス主義的なテキストだと考えており、この本を執筆した時点では、デリダもフーコーも全く読んだことがなかったのだった。

また、この本はドイツ語、スペイン語、日本語、ポルトガル語、トルコ語、韓国語、スウェーデン語、デンマーク語、ノルウェー語、アラビア語の各国語に翻訳されたが、ここで面白いのは、グルジア語やチェチェン語といった旧ソ連の言語にも翻訳されたということだ。これには、ジョージ・ソロスがかつてのソビエト連邦を文明化しようという考えの下に登場し、100人の有名な学者を集めて委員会を結成し、旧ソ連の全ての言語に翻訳されるべき100冊の重要な本を選ぶように呼びかけたという事情があった。そのリストの中に『想像の共同体』が含まれていた。ソロスは、こられの書籍を翻訳出版してくれる人に、その費用の50%を補助すると提案し、『想像の共同体』は予想外の形で翻訳版が出版されたのだった。

さて、ではここからアンダーソンが『想像の共同体』の中で、具体的にどんな主張を展開したのかについて注目してみたいと思います。

この本の中で、アンダーソンは、「国民とはイメージとして心に描かれた想像の政治共同体である」と述べています。これは衝撃的な一節で、この文の「国民」という言葉を「日本人」という言葉に置き換えて読んでみると、その内容に驚かされるのではないかと思います。つまり、「日本人とはイメージとして心に描かれた想像の政治共同体である」という風に。これを読むと、大抵の人が「えっ、日本人というのは実在しているのではなく、人々の想像の中にイメージとして描かれているだけなのか?!」と従来の思考が揺さぶられることでしょう。

普通、日本人というと、ある程度の一般的な特徴を持った民族としての認識があって、そういうものが想起されるものです。こういう考え方は、ある対象を決定的な特質=本質とされる1つないし複数の要素に還元して説明しようとするもので、本質主義(essentialism)と呼ばれています。

これに対して、アンダーソンのアプローチは、「心に描かれた」という動詞が使われており、「日本人」を既にある何者かとしてではなく、作られていく過程にある何者かとして捉えようとしています。こういう考え方を構築主義(constructionism)と言います。

前者の本質主義の考え方に従って日本人を定義してみると、例えば、次のような3つの規定の仕方が考えられます。1. 日本人とは、礼儀正しく、和を重んじる人々である。(文化的規定) 2. 日本人とは、日本史の教科書に書かれた人々のことである。(歴史的規定) 3. 日本人とは、日本国籍を持つ人々のことである。(法律的規定)

しかし、この3つの規定を構築主義的な観点から批判的に検証してみると、次のような反証が成り立ちます。

1. 文化的規定:平均的な日本人について語るためには、既に日本人とは誰なのかがあらかじめ決められていることが前提になります。

2. 歴史的規定:現在の日本史の教科書は、縄文時代の日本列島の記述から始まりますが、縄文時代に今の日本列島に住んでいた人々を「日本人」と呼びうるだろうか? 彼らに「あなたは何人ですか?」と聞いてみればいい。しかし、その場合にも、一体何語で聞けばいいのだろうか?

3. 法律的規定:法律は「日本人」とは何かという問いについて、とても明快な規定を用意しています。つまり、日本国籍を持ち、日本のパスポートを持つことができる人物という定義です。ここには帰化した外国出身の人も含まれます。しかし、私たちの常識的な感覚から言えば、そういう人たちを同じ日本人として認識するということはなく、日本国籍を取得した外国人という捉え方をするものです。ここで、「法律的規定は必要条件だが、十分条件ではない」とした上で、日本語が上達して、上手な日本語を話す外国人や、長く日本で暮らしている外国人について考えてみると、ここでも、「上手な日本語を話す外国人」以上の存在になれるのだろうか、長く日本に住んでいるとは、どのくらいの期間だろうかという疑問が湧いてきます。

アンダーソンが、このようなことに問題意識を持ち、ナショナリズムというテーマに向き合うようになったのには、アイルランドとイギリス、カトリックとプロテスタント、中国と大英帝国、イギリスのエリート教育とアイルランド人意識といった幾重にも折り重なるアイデンティティの物語が大きく影響していたのです。

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2012年03月15日

山本紀夫著『天空の帝国インカ』

今回取り上げるのは、インカ帝国の歴史について書かれた山本紀夫著『天空の帝国インカ』(PHP新書)です。著者である山本紀夫氏は国立民族学博物館名誉教授であり、40年以上にわたってアンデス高地の歴史や人々の暮らしについて学術調査を行っている民族学者であり、人類学者です。

私がこの本を読んでみたいと思ったきっかけは、先月の下旬にBSアーカイブスで再放送(初回放送は2001年)されたペルーの山岳鉄道の旅を取り上げた番組を見たことでした。作家の関川夏央さんがペルーの山岳鉄道に乗って、かつてインカ帝国が栄えたマチュピチュまで行くという内容でした。

この番組でかつてのインカの栄華を感じさせるマチュピチュの神秘的で壮大な光景や、ペルーの人たちの暮らしぶりを見て、改めてインカ帝国について知りたいと思いました。

この『天空の帝国インカ』は、著者である山本紀夫氏の人類学的、民族学的なフィールド・ワークに基づく知見を中心にして、考古学や歴史学、地理学、生態学、農学などの関連分野の研究成果も参照しながら、当時のインカの人々の暮らしについて論述したものです。

この本を読むと、様々な分野の研究に基づいて、インカ帝国の実態がかなりの程度まで解明されてきているということがわかります。また、山本氏自身の学術調査に基づく人類学的な考察から、インカのエリート層だけではなく当時の一般の庶民の暮らしの実態が詳細に綴られており、彼らの精神世界の話は、歴史推理小説を読んでいるかのような歴史のロマンを感じさせる、心躍るものでした。

以下に、本書の中から主なポイントと考えられる内容をまとめてみました。

世界最長のアンデス山脈は南米大陸の太平洋岸に沿って南北に約8,000キロメートルの長さにわたって細長く走る大山脈で、標高6,000メートルを超える高峰もある。この長さは、日本列島の本州を6つから7つつなぎ合わせたくらいのものだ。こういう細長い形を特徴とするアンデスは、緯度によって北部アンデス、中央アンデス、南部アンデスという大きく3つの地域に分けられる。緯度が低ければ低いほど、一般的に言って気温は高くなる。そのため、低緯度地帯は熱帯あるいは亜熱帯圏となり、北部アンデスや中央アンデスはこのカテゴリーに入る。ただ、この熱帯圏には6,000メートルに及ぶ大きな高度差を持つ山岳地帯があるため、標高の高いところでは寒帯や氷雪地帯も見られる。このように中央アンデスが低緯度地帯に位置することによって、富士山の頂上と同じくらいの高地でも気候は1年を通して比較的温暖だ。

また、標高が高いと住みにくいのではないかと考えている人が多く、海抜3,000メートルを超す高地で生まれたインカ帝国のことが驚異的な謎だとされがちだが、実際にはそうではない。インカ帝国の中心地だったペルーのクスコは、海抜3,400メートルの高さに位置し、当時約20万人の人口を擁する南米最大の都市だった。高地に位置するということには、疫病をもたらす媒介蚊が発生しにくいことや、交通路が制限されているために外界からの流入者を防ぎやすいという利点もあり、高地は健康地だという側面もある。

日本ではよくインカ帝国は古代帝国とか古代文明という言葉で表されるが、インカ帝国が栄えた15世紀は日本の室町時代に当たり、日本史に照らし合わせると、インカ帝国は近世と言っていいほど比較的新しい時代のことだった。また、インカ帝国はアンデス文明と同一視される傾向があり、これも誤解の原因になっている。アンデスに人類が初めて姿を現したのは今からおよそ1万年前のことであり、インカ族が勢力を広げ、中央アンデス全域を支配下に置き、隣接地域も征服し、最盛期を誇ったのは、15世紀からわずか100年ほどのことだった。つまり、数千年に及ぶアンデス文明の歴史の中で、インカ帝国はほんの一部にすぎない。

インカの人々は、トウモロコシやジャガイモを主に食用として栽培し、灌漑技術と階段耕作という2つの大きな特徴ある栽培技法を使っていた。灌漑は海岸地帯で古くから行われていたが、階段耕作は山岳地帯に限られ、山岳地帯に多い斜面を階段状にして、そこを耕地とする方法だ。そういう栽培の中でも、インカの人々は特にトウモロコシ栽培に強い執着を持っており、ここには非常に重要な意味がある。つまり、インカの人々にとって、トウモロコシは食料としてよりも、むしろチチャという名前で知られる儀礼や祭りに使われる酒の材料として欠かせないものだった。インカの国家宗教である太陽信仰の総本山だった「太陽の神殿」で造られたチチャ酒は、インカ王自身が最高の神官となって太陽に捧げられる祭りである「太陽の祭典」のために使われた。この祭りは、インカ帝国最大の荘厳な祭りだった。この祭りで、チチャ酒は、太陽神との交流のために消費された。また、当時の再分配経済の中で、インカ王や地方の首長たちは、再分配の時の贈り物とともにチチャ酒を気前よくふるまうことによって、人々の支持を集め、自らの権威を高めていた。さらに、各地の異民族との間の緊張関係を避けたり、解いたりするためにも、インカ王はチチャ酒をふるまって、富の分配に利用した。実際、考古学者によると、インカ以前の中部高地で政治的緊張の高まりとともに、チチャ酒の製造が増加しているという報告もある。

インカ帝国の滅亡から500年の年月が流れた現在でも、アンデス農民の間でチチャ酒は重要な存在だ。農作業を手伝ってくれた人たちにチチャ酒がふるまわれ、老若男女を問わず皆で飲む。その時、自分が飲む前には必ず大地にも飲んでもらう。彼らは、大地には農耕の神様パチャママがいると信じており、大地に対してコップを傾け、地面に酒をこぼして捧げる。

さらに、インカの文化の中でもう1つ重要なのが、ワカ信仰と呼ばれる古い時代からの信仰だ。インカ時代のアンデス住民は、太陽、稲妻、海、山、丘、大地、泉、川などを信仰の対象としており、これらを「ワカ」と呼んで崇拝していた。

また、自然界、生物界に生じた特異なものや異常な形態をしたものなどに特別な関心を持ち、神聖視し、崇拝していた。双生児の母親や逆子、手や足に指が6本ある者など、「通常の成り行きから逸脱」したものに、特別な力や神秘的な力を見出していた。これは食べ物にも言えることで、例えば、果穂の一部が割れていたり、途中から二重または三重になったりしている異常な形をしたトウモロコシを「サラママ」(インカのケチュア語で「トウモロコシの神様」の意味)と呼んでいた。このサラママは大地の神であるパチャママへの贈り物であり、収穫したトウモロコシのお守りと考えられていた。これは、インカ以前の時代に作られた数多くの土器や織物類などにも見られ、異常な形をした人物や作物、家畜などをモチーフにしたものがある。

このような「異形」なものを神聖視するワカ信仰の中でも、インカ帝国の中心地だったクスコに足を踏み入れた征服者たちを非常に驚かせたのが、ミイラとインカ貴族のオレホンと呼ばれる大きな耳だった。インカ王のミイラについて、スペイン人ピサロは不快感と驚きをこめて次のように記述している。

「このクスコにいた人々を見ると、驚きを感ずる。彼らの大部分が(中略)死者たち(ミイラ)に仕えていて、毎日それを広場にかつぎ出し、それぞれ古さにしたがってきちんと並べて、そこで男女の使用人が飲み喰いした」

また、アコスタによると、「王や貴族の遺体は、悪臭や腐敗なしに」そっくりそのまま保存され、「完全な姿のまま、肌も艶々としているのを見て、人々は驚いた」と記述している。

また、インカ王や貴族は、貴性の印として、耳に穴をあけて金などの図柄をはめ込んでいて、そのために耳が大きくなっていたので、スペイン人は彼らを大耳を意味する「オレホン」と呼んでいた。

このように、インカ帝国では自然界にある異形だけではなく、ミイラやオレホンのような人間が手を加えて積極的に異形的なものを生み出していた。ミイラやオレホンもインカのエリート層に限られていたことから、異形と高貴性は強く結びついていた。異形的なものは神様と言っても過言ではなかった。

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2012年03月09日

上田和夫著『ユダヤ人』

この読書ブログの2回目の書籍として、上田和夫著『ユダヤ人』(講談社現代新書)を選びました。私はユダヤ人の歴史やものの考え方、その独特の知性の輝きといったことに非常に興味があります。歴代のノーベル賞受賞者に占めるユダヤ人やユダヤ系学者の割合は非常に高いと言われることがしばしばあります。また、マルクスやアインシュタイン、フロイトをはじめとして様々な分野で大きな業績を残したユダヤ人は世界の歴史に永久に名前が語り継がれています。

一方で、ユダヤ人国家であるイスラエルは、国際政治の中では時にあまりにもやり過ぎだと批判されるような政治的、軍事的な動きを見せることがあります。折しも、イランの核開発が問題視されている目下の情勢下において、イランに対してイスラエルが奇襲攻撃を仕掛ける可能性が指摘され、世界のメディアや専門家の注目を集めています。実際、イスラエルは1981年にイラクのオシリス原子炉を空襲し破壊するという空軍の軍事作戦を実行した事例があるだけに、今回のイランの核問題に関しても、決して楽観できない情勢が続いています。

『ユダヤ人』という本は講談社現代新書から出版されている本で、今は講談社現代新書は装丁が新装されていますが、私が持っているものは1964年4月創刊当時の古い装丁のものです。この本自体も最初に出版されたのは1986年です。

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さっそく、内容に入っていきたいと思います。ユダヤ人というと、2000年の流浪の民であり、迫害に次ぐ迫害の歴史を通ってきた民族として知られています。バビロン捕囚、出エジプト、古代ローマ帝国の支配、ディアスポラ、シャイロック、ポグロム、ナチスドイツによる大虐殺、イスラエル建国といったキーワードが誰のイメージの中にも浮かんでくることでしょう。

本書には、そういうことについて一通りの記述がありますが、その中でも、私にとって特に強く印象に残ったポイントについて、以下に紹介したいと思います。

ローマによる支配によって世界中に離散したユダヤ人たちはイベリア半島に逃れますが、15世紀にスペインをカトリック教国にしようという動きの中で異端審問が始まり、スペインを退去するように通告が出されます。ユダヤ人は隣国ポルトガルに逃れますが、そこでも異端審問が行われ、一時的な避難場所にすぎませんでした。そこで、さらにギリシア、トルコ、北アフリカ、イタリア、オランダなどに避難します。その中で、オランダではユダヤ人にとって比較的信教の自由が保証されていたという点に注目しました。

当時のオランダは、貿易で国を興そうとしていたため、商業を得意とするユダヤ人にとっては好都合でした。オランダ最大の都市アムステルダムを中心として、経済発展に大きく貢献しました。ただ、かなり自由なユダヤ教の信仰を認められたユダヤ人の間では、ユダヤ教の伝統をあまりに厳格に実行したために、逆にユダヤ人の内部からもっと自由な考え方を希望する批判者が出てきました。その代表的な人物の1人が、哲学者のスピノザだったのです。

スピノザはアムステルダムのユダヤ人街で商人の息子として生まれ、敬虔なユダヤ教徒でした。彼はタルムードやカバラを学び、将来はユダヤ教のラビを嘱望されていましたが、ユダヤの神学だけでは満足できず、ラテン語を習得し、ギリシア哲学やスコラ哲学も学んだのでした。こうしてユダヤ教の境界を越えていったスピノザは、聖書は完全に人間が創ったものであり、ユダヤ人の連帯を強めることを意図したものだと主張しました。また、ユダヤ教の祭式や教えを無視し、キリスト教の会合にまで出席するという行動に出るようになり、1656年にはユダヤ教会から破門されてしまいました。彼はそれにも屈せず、名前をラテン語風に変えて、ハーグでキリスト教徒と過ごしましたが、彼自身はキリスト教徒にはならず、一時はハイデルベルグ大学に招聘される話もありました。ところが、それを断り、レンズ磨き職人として働いたのでした。しかし、結局、1677年に44歳で肺結核で亡くなりました。

オランダというユダヤ人にとって宗教信仰の面で比較的寛容な環境にあった中で、スピノザという異端者が現われたのは、皮肉と言えばいいのか、独特の展開が見られたんだなあと思います。

次に注目したのは、日本の帝国劇場で上演されて日本人にも親しまれた『屋根の上のバイオリン弾き』の話です。この作品は、ロシアのイディッシュ語(ユダヤ人の使う日常語)作家であるショレム・アレイヘムが書いた「牛乳屋テヴィエ」と「故国」という2つの物語をまとめたものです。物語の舞台は、帝政ロシア時代末期の1905年のアナテフカ(架空の地名)という寒村に暮らす5人の娘を持つユダヤ人である牛乳屋のテヴィエの一家を描いたものです。

このミュージカルを観た感想として、著者の上田和夫氏は三女の名前ハヴァがチャヴァとなっていたのには驚いたと書いています。ハヴァというのは、「創世記」の中に出てくる最初の女であるイヴのヘブライ語名であり、900回を超える上演回数を重ねながら、ずっとチャヴァで通してきたということでは、はたしてユダヤ人についてどれだけわかっているのかといぶかしくなる部分があるということです。また、「司祭」という呼び名を使っているのにも抵抗を感じたそうです。ユダヤ教の用語なのだから、ラビという言葉を使ってほしいと。

作者のショレム・アレイヘムは、非ユダヤ人にもよく知られており、ユダヤ人の間でも抜群の人気作家です。その理由としては、作品そのものが明るくユーモアに富んでいて、庶民的だからです。彼はイディッシュ文学史上、メンデレ・モイヘル・スフォリームイツホク・レイブシュ・ペレツと並んで、近代の三大古典作家の1人であり、「イディッシュ文学のマーク・トウェイン」と呼ばれている大作家です。1859年にウクライナのペレヤスラフという町で生まれ、本名はソロモン・ナフームヴィッチ・ラビノヴィッツといいます。その生涯も波瀾万丈で、1916年にニューヨークで最期を迎えました。当時、イディッシュ語新聞は「ショレム・アレイヘム死す」と大見出しをつけ、その2日後に行われた葬儀には1万人以上もの人たちが参列し、この偉大なユダヤ人作家を見送ったといいます。彼は子供たちに対する遺言を、次のような言葉で締めくくっています。

お母さんを大事にしてあげておくれ。お母さんの年齢を若くみせてあげておくれ。つらい人生を甘いものにしてあげておくれ。傷ついた心をいやしてあげておくれ。反対に、私のために泣かないでおくれ。反対に、喜びをもって覚えていておくれ。そして、最も大事なことだが、みんな仲よく暮らしておくれ。他人に憎しみを抱かないでおくれ。つらい時には助け合っておくれ。時々、家族の他の人たちのことを思い出しておくれ。かわいそうな人をいたわってあげておくれ。そして事情が許せば借金も、もしあるならばの話だが、払っておいておくれ。子供たちよ、誇りを持って、私がやっとのことで得たユダヤの名前を誇りを持って維持しておくれ。そして天の神さまがお前たちをいつまでも支えていて下さるように。

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posted by 平井和也 at 23:48| Comment(0) | 読書 学術 書籍 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年03月04日

僕の叔父さん 網野善彦

このブログで取り上げる最初の書籍として、中沢新一著『僕の叔父さん 網野善彦』(集英社新書)を選びました。大きな理由としては、私が住んでいる山梨県出身(山梨市)の学者である中沢新一さんに注目してみたいと思ったということです。また、最近、改めてこの本を読んで、強く印象に残ったということもあります。

私が中沢新一という学者の存在を初めて知ったのは、もうだいぶ前の大学生の頃でした。あるテレビ番組で中沢さんがキリストとブッダについて解説しているのを見て、中沢さんを知るようになりました。もっと正確に言うと、もう少し以前から中沢さんの顔をメディアで見た記憶がありましたが、その時にはまだ特別意識していませんでした。前述の番組を見たことがきっかけで、中沢さんが僕と同じ山梨県出身だということを知って、親近感を覚え、興味を持つようなりました。

今から6年から7年くらい前のことですが、山梨の甲府で行われたあるイベントに中沢さんがゲストとして登場し、そこで生で話を聴いたことがあります。当時中沢さんは、中央大学で教鞭を執っていた時期です。

『僕の叔父さん 網野善彦』は、そのタイトルが示している通り、中沢さんが自身の叔父である歴史学者の故網野善彦さんと初めて会った5歳くらいの幼き日の記憶から大人になって学者として専門的な議論を交わし交流するようになった頃までの思い出を綴った追想記です。

これを読むと、中沢新一という思想家が、生まれるべくして生まれたんだということがよくわかります。幼い頃から、父親や叔父たちが家の中で激しい思想的な議論を交わしているのを横で聞いていたという家庭環境の中で育ち、その思想的な素地が自然と養われていったことが、実感として伝わってきます。

民俗学の研究をしていた父親・中沢厚の妹、つまり中沢新一さんの叔母が、当時駆け出しの歴史学者だった網野善彦さんと結婚し、中沢さんの家系に加わることになりました。当時、網野さんは常民文化研究所の活動に関わっており、中沢さんの父親は、自身が民俗学の研究をしていたということで、常民文化研究所の動向には並々ならぬ関心を寄せていたといいます。そこの仕事のお手伝いに入った妹が、同じ山梨県出身で、中世の荘園や漁業史の古文書を研究していた網野さんと結ばれたということで、父親は非常に喜んでいたそうです。

中沢家は代々、「理念」や「理想」、「観念」といった抽象的な思索の世界を追求する家柄であり、網野さんが中沢家と親類関係を結んだことは、両者にとって理想的な結びつきだったわけです。

網野さんは銀行家の一家の末子に生まれ、お兄さんたちが皆金融や実業の世界で早くから活躍する中で、網野さんだけが貧乏な学者の人生を選びました。お兄さんたちからは小さい頃から、頭でっかちで観念的で泣き虫な性格を批判されていたそうです。

ところが、中沢家に新しく「兄」として入ると、他の家系ではあり得ないほど「理念」や「理想」、「観念」を追い求める環境に身を置くようになったわけです。こういう家柄は、中沢家では既に何代にもわたって続いてきたものであり、中沢新一さんから数えて四代前のご先祖さんである紺屋徳兵衛という人は、生糸の生産と藍染めを生業としながら、神官のような白い袴を身にまとって、神祈祷を行っていたという話が残っているそうです。

その次の代の中澤徳兵衛という人物は、幕末に生まれ、明治の文明開化を全身に受けとめて成長し、生糸の生産販売と貿易で大きな成功を収め、財産をなすと、周囲の人々の驚きを尻目に友人二人と堂々とキリスト教徒に改宗してしまいました。そこで洗礼を施したのは、甲府にあった日本メソジスト教会の牧師・山中共古でした。この人は江戸城大奥勤めの後、維新後静岡で出会った元新撰組隊士結城無二三から洗礼を受けて、クリスチャンとなった人であり、さらに民俗学の草分けとして今日でも名を残している人物です。日本民俗学の出発点を飾る書物として名高い『石神問答』は、山中共古が柳田國男と交わした往復書簡をもとに著されたものです。中澤徳兵衛は、この山中共古の力添えを得て、日下部教会を創設したのでした。

この時のキリスト教への改宗が、子孫の精神的遺伝子に「理念」や「思想」をことのほか重んじる観念的な傾向を植え付けることになったのだろうと考えている、と中沢新一さんは書いています。

エビやカニなどの甲殻類を研究する生物学者だった祖父の毅一は、駿河湾の深海生物を研究するために、由比蒲原に私財を投じて、「駿河湾水産生物研究所」を建て、サクラエビなどの研究を行いました。この人は晩年になると、生物学への情熱にもまして、キリスト教の神への信仰と生物学的世界観と日本人の共同体の思想を結合しようとする思想的な著作に打ち込むようになり、『神・人・動物』(1938年)や『我国体の生物学的基礎』(The Biological Basis of Our Country’s Existence;1941年)という論文を書き上げました。

天皇を頂点とする国家制度(国体)の論理を、生物学・生態学的な視点から解明しようとしたこの論文は、父親の世代の兄弟たちの精神に大きな動揺をもたらし、NHKに入った長男を除いて全員がマルクス主義者になりました。家の中では常に思想的な議論が活発に行われ、キリスト教と皇国史観とマルクス主義が、ひとつの坩堝の中でたえず沸騰している状態でした。そして、その思想の坩堝の中に、網野さんが飛び込んできたのでした。

『僕の叔父さん 網野善彦』を通して強く感じることは、中沢新一さんが網野さんの思考の発展過程を叔父と甥という関係性の中で、実際に間近で体感してきたリアリティーです。1968年に佐世保にアメリカの原子力空母エンタープライズが給油のために入港しようとした時、それを阻止しようとヘルメットと角材で武装した学生と労働者が機動隊と激しく衝突している映像をテレビで見ていた父親が、それがきっかけとなって子供の頃の思い出話を始め、それが思いがけない形で網野さんの研究につながっていったという話は、特に私の心に強い印象を残す記述でした。中沢さんの父親は、まとめると次のような話を始めたそうです。(46ページから47ページ)

子供の頃、笛吹川の対岸の堤防に、万力村や正徳寺村の子供たちがずらりと並んで、こちらを睨みつけていた。手には皆小石を握って、こちらに向かって大声で囃し立ててくる。すると、堤防のこちら側に並んだ子供たちも負けじと罵り言葉で応戦し、それを何度か儀式のように繰り返した後、投石合戦が始まった。投石をまともに喰らって、顔からぼたぼた血を流している友達もいる。しかし、そこでひるんだりしたら、後で皆にバカにされるから、夢中で石を投げ続ける。そして、不思議なことに、誰が命令したわけでもないのに、しばらくすると自然と投石が止んだ。普段だったら親に怒られるところだが、大人たちは怪我をして血だらけになった子供を、よくやったと迎え入れてくれた。

父親は、この話をした後、何かに取り憑かれたようになってこの投石合戦のことを調べ始めると、やがて民俗学事典の「菖蒲切り」という項目に行き当たりました。すると、かつて五月の節句の季節に日本列島の広い地域で行われていた子供の民俗行事だったということが判明しました。

ちょうどそれが判明した頃、うまい具合に網野さんが山梨の家に遊びにやって来るのでした。そこで、父親が調べてわかった「菖蒲切り」の話をすると、網野さんは、こういう返事をしたそうです。

「中世にたしか『飛礫』(ひれき)という言葉があったように思います。そうですよ、悪党たちが闘うときには、まず飛礫を飛ばして、相手をひるませてから、飛び出していくというような記事をどこかで読んだことがあります。飛礫を飛ばす専門的な連中もいたんじゃなかったかなあ。そうだ、そうですよ。あれは悪党の闘い方ですよ」(50ページ)

そして、父親の返答を聞いた後、網野さんはさらに次のように言ったそうです。

「兄さんの話はとても大事です。目から鱗が落ちたような心境です。ぼく自身、自分がなぜ悪党なんかに惹かれ続けてきたのか、その意味が今ようやくわかってきたような気がします。飛礫が菖蒲切りのような民間の習俗と、同じ起源から出ているとすると、悪党という存在そのものが、中世とか古代とかいうことよりももっと根源的な、人類の原始に根ざしていることになってきます。鎌倉時代の、あの歴史の転換点に浮上してきたのが、まさにそういう原始をになった人々だった。そう考えると、なぜあの時代だけにかぎって、日本人の宗教思想が飛躍的に深まったのかまで、わかってくるような気がします。兄さんの話はとても大事です。ぜひこれから飛礫の研究をしてください」(51ページ)

この会話をきっかけとして、網野さんの思考の内部で激烈な変化が起こりました。中世の古文書の記録を丹念に調べ上げ、歴史に真実の転換をもたらすものの本質を、ようやく探り当てることができたという確かな実感をつかんだような雰囲気だったといいます。常識を覆す視点に立った全く新しい中世像が、網野さんの前に明瞭な姿を現わそうとしていました。

ただ、律儀な網野さんは、自分の思考に最初に火をつけてくれた人を立てるために、自分よりも先に父親(義理のお兄さん)に飛礫についての研究を出版してほしいと願い出ました。が、父親から説得されて、その後1973年の夏に本の執筆に取り掛かり、『蒙古襲来』を書き上げました。

この他にも、網野さんと中沢さんの様々な思想的な交流が綴られていますが、「終章 別れの言葉」の最後のページに、中沢さんは網野さんへのお別れの言葉を次のように締めくくっています。

私は自分が網野さんのような人と出会い、叔父と甥の関係をとおして親友のように仲よくなり、たがいが心に思うことを存分に語り合うことができた、そのことにかぎりない人生の神秘を感じるのだ。私は思うさま泣いて、そして深く感謝した。このようなつたない人間でしかない私を最後まで心からかわいがってくれた「僕の叔父さん」、長いあいだほんとうにありがとうございました。

posted by 平井和也 at 00:34| Comment(0) | 読書 学術 書籍 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年03月03日

ブログ開設

私は、学術文書の日英・英日翻訳を得意としている翻訳者です。主に、人文科学・社会科学系全般を中心としており、これまでに実務で扱ってきた分野は様々なものがあります。

過去に扱った分野の例を挙げれば、国際政治、経済、行政、歴史、環境、文学、宗教、芸術、文化人類学、心理学、哲学など多岐に渡っています。

具体的なテーマを挙げれば、戦後の日米関係、北朝鮮情勢、国際人道支援、行政改革、公共事業、地域経済、医療政策、公共交通政策、森林行政、歴史教科書問題、ナショナリズム、植民地統治、アフリカの呪術、イスラム教、演劇、日本的生産方式、女性の雇用、労働市場、日本の古代史や近世史、正倉院文書、江戸の舟運文化、京都議定書、自治体の環境問題対策、文学評論、ドイツ観念論哲学、科学哲学、日本の伝統芸能、比較文化、相対性理論、地震対策など、様々なテーマを扱った学術文書の主に日英翻訳を数多く手掛けてきた経験があります。

私は学術的な世界に非常に興味があり、学術文書や学術系の書籍を読むことが好きです。このブログでは、学術関連の書籍について書いていきたいと思います。

以前から本に関するブログを作ってみたいと思っていたので、特に学術分野をメインにしたブログとして開設しました。時事問題のノンフィクションや小説などいろいろと読みたい本がある中で、学術的な内容の本をコンスタントに読む機会を設けるという意味でも、このブログを活用していきたいと思います。
posted by 平井和也 at 03:54| Comment(0) | 読書 学術 書籍 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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