2012年04月22日

酒井啓子著『<中東>の考え方』

今回取り上げる酒井啓子著『<中東>の考え方』という本は、中東という地域についてある程度まとまった知識を得るために適した本だと思います。中東の歴史や各国、各地域の特徴、欧米諸国とのかかわりや現在の状況を知るための必須事項がコンパクトにまとめられています。この本を読むと、一般的に「中東」という名前で呼ばれている地域が、国際政治のダイナミズムのど真ん中で、大国の思惑に左右されながら、大国との利害関係を戦略的に考えながら生きてきた歴史がよくわかります。以下に、大きく3つのポイントについてまとめてみました。

●中東地域の欧米とのかかわり

「中東」が地理的には「東」ではないが「東」と呼ばれている理由は、大英帝国がアジア進出の過程でこの地域をMiddle Eastと呼び、その直訳からきている。この単語が最初に出てきたのは、1902年に米国の戦略理論家であるマハンが、大英帝国の戦略拠点としてペルシア湾岸地域を指して使ったことだった。同時期の著名な英国のジャーナリストであるチロルは、これにアフガニスタンからチベットまでを加えている。また、「近東(Near East)」は、だいたいオスマン帝国の領域に一致して使われた。

ヨーロッパの世界戦略策定の過程で、「中東」、「近東」と名付けられたその「東」とは、「オリエント」、つまり、ヨーロッパではないが、ヨーロッパに隣接する「異国」という意味合いがある。ヨーロッパにとっては「中東」は、ヨーロッパ本土と植民地インドをつなぐ途中経路だった。が、20世紀初頭まで地中海の対岸にはオスマン帝国が、ペルシア湾北岸にはペルシア帝国が君臨していた。そういう状況の中で、大英帝国が対インド支配を盤石にするために目をつけたのが、アラビア半島とインドの間の海洋安全保障だった。大英帝国は、アラビア半島中央部から海岸部に移住した諸部族の抗争を利用して、一部の部族長と手を結ぶという戦術を採った。

大英帝国にとって、こういう協定を結ぶのは、インドの遠い対岸であるアラビア半島東岸を手中にするという意味で重要な戦略拠点の確保だったが、同時に締結相手にとってもメリットがあった。つまり、勢力が拮抗する中小部族が抗争を繰り返していたところに、圧倒的な政治力と軍事力を持った大英帝国という大国が現われ、その国と手を組むことによって、地方の一部族が一国を支える首長家に格上げされたのだった。

このような中で、「メッカ、メディナというイスラム教徒にとって最も重要な聖地2つを護衛する者である」と自らを謳う「イスラムの盟主」であるサウジアラビアでは、大英帝国との間で不協和音が鳴っていたが、そこに目をつけたのが米国だった。米国と中東とのかかわりは遅く、米国が政府として中東地域に政治的・経済的な関与を強めたのは20世紀に入ってからのことだった。米国務省に「近東局」が設置されたのは1909年のことだった。当時、新興国だった米国が狙っていたのは、どうやってヨーロッパ列強諸国の中東に対する独占的な支配に食い込むかということだった。

その中でも米国にとって最大の問題は、中東の石油資源にいかにアクセスするかということだった。ペルシアで油田が発見され、英国人実業家のW・ダーシーが利権を得てアングロ・ペルシア石油会社を設立したのが1909年で、その後、今のイラクのキルクークでも油田が発見され、イラン、イラクの石油利権は英仏に独占された。

そこで米国企業は、英仏独占地域の外に油田を見つけられないかと考えたのだった。カリフォルニア・スタンダード社(後のシェブロン)は、バーレーンで油田を掘り当て、続いて1933年にサウジアラビアから石油利権を得た。そこから米国とサウジアラビアの蜜月が始まった。サウジアラビアの石油開発を一手に引き受ける米合弁会社アラムコは、東部州ダーランで超巨大油田を開発し、世界最大のラス・タンヌーラ製油所を建設し、サウジアラビアの石油産業を作り上げていった。

第二次世界大戦末期には、米国政府はエネルギー資源確保のために、サウジアラビアからの石油供給の安定化を自国の死活問題と認識するようになり、1951年にはダーラン空軍基地の使用を含めた米国とサウジアラビアの軍事協力関係を定めた相互防衛援助協定が締結された。さらに、米国にとってサウジアラビアとの関係構築の上で重要だったのが、冷戦によってソ連がこの地域に南下し、油田地帯を脅かすことに対する恐れだった。

●アラブ民族主義とシオニズム

前回のブログで、ベネディクト・アンダーソンが提唱した「国民とはイメージとして心に描かれた想像の政治共同体である」という言説について取り上げましたが、『<中東>の考え方』の中に記述されているアラブ民族主義とシオニズムの解説を読むと、アンダーソンが提示した「想像の共同体」という概念が体現された好例だということが強く感じられました。その内容をまとめると、次のようになります。

そもそもアラブ人とは何か? 『岩波イスラム辞典』によると、「自分もしくは先祖がアラビア半島出身であると意識してアラビア語を母語とし、先祖たちならびにイスラムが築いてきた文明的遺産を誇り、継承しようとしている人びと」と定義されている。ただ、ここで混同されがちだが、同じ中東でイスラム教徒が人口の大半を占めていても、ペルシア語を公用語とするイラン、トルコ語を公用語とするトルコは「アラブ」ではない。一方で、アラブ人が「イスラムが築いてきた文明的遺産を誇る」といっても、アラブ人=イスラム教徒だというわけでもない。シリアやレバノン、パレスチナ、エジプトといった東地中海沿岸地域や、イラク北部にはキリスト教徒のアラブ人が多く、イスラエル建国以前は、モロッコやイラク、イエメンに多くのユダヤ教徒が住んでいた。

そのアラブ人たちの間で「アラブ民族はひとつ」という思想が具体的な政治構想を持って動き始めたのは、第一次世界大戦の頃だった。大英帝国が第一次大戦に勝つために、オスマン帝国を内部から切り崩そうとしてメッカの太守フサインを後押しし、彼らにアラブの独立を約束する(フサイン・マクマホン協定)一方で、ユダヤ人に建国の約束をし(バルフォア宣言)、実際にはオスマン帝国の領土を英仏露の三国協商で分割統治するサイクス・ピコ協定を結ぶという三枚舌外交を展開した。この時期アラブ人たちが民族意識を高めていった背景には、西欧列強の進出が決定的な意味を持っていた。

そういう中で第一次世界大戦が勃発し、「アラブの独立」を約束したはずの大英帝国はフランスと共にオスマン帝国の領土の山分けを進めたのだった。アラブ人の住む領域は小分けにされ、英仏によって直接、間接に統治された。英仏の支配下に置かれたことへの反発に加えて、この「小分け」がアラブ人たちのさらなる反感を買った。彼らの住む世界には、軽々と境界を越えて移動できる広がりを持った「ウチ」意識が共有されていたが、国境によって隔てられ、それぞれ「イラク」や「ヨルダン」といった歴史的にあまり馴染みのない地名を冠した人工的な国に分けられてしまったのだった。

ここにアラブ民族主義が出現した。キリスト教徒であれイスラム教徒であれ、「アラブ民族」はひとつであるべきであり、そのひとつになったアラブ民族が西欧の支配と分断を乗り越えれば繁栄を実現できるはずだ、という思想的な機運が生まれた。

その一方で、アラブの分割と共に、第一次大戦中に英国が行った政策の中で後世に禍根を残す結果になったのが、バルフォア宣言だった。1917年に英国外相のアーサー・バルフォアが、ユダヤ人の「民族的郷土」をパレスチナにつくることに合意する書簡を在英ユダヤ人の名士であるウォルター・ロスチャイルドに宛てて出した。しかし、アラブ側はパレスチナの土地はフサイン・マクマホン協定で独立を約束されたアラブ王国の一部だと考えており、ここでパレスチナの土地がユダヤ人とアラブ人の間で争われることになった。

ユダヤ人による国家樹立というシオニズム思想が生まれたのは、19世紀後半、フランスで起きたドレフュス事件に衝撃を受けたテオドール・ヘルツルが1897年に世界シオニスト機構を設立したのを契機とする。ちょうどその頃、西欧諸国はナショナリズムの時代だった。ヨーロッパの人々が「フランス人」、「ドイツ人」というふうにそれぞれ国民としてのアイデンティティを確立していく中で、ヨーロッパのユダヤ教徒たちはそうした「国民」の枠から排除されていった。

そもそもユダヤ人とはユダヤ教徒のことだった。宗教的にはユダヤ人でも、民族的には様々に異なる事情がある。ところが、近代ヨーロッパの環境が、ユダヤ人たちを「教徒」に留まることを許さなかった。ヨーロッパが国民国家の時代を迎えるのと並行して、ユダヤ教徒に対する差部や迫害が広がった。ユダヤ人たちは、その宗教上のアイデンティティゆえにヨーロッパの「国民」として平等に認められないという屈辱を味わった。そういう状況の中で、自分たちが自分たちの「国」と「国民」を作り上げるしかないのではないか、「ユダヤ教徒」を「ユダヤ人」にするのだ、という考え方が考案され、これがヘルツルのシオニズム思想となった。このようにシオニズムは、神が作った宗教ではなく、人間の作るものとしてのナショナリズムの発想だった。

しかし、実際問題として、ヨーロッパ各地に離散していたユダヤ教徒たちをユダヤ人としてひとつの国にまとめ上げるには、強烈な統合のシンボルが必要だった。それは、神に選ばれ、神に土地を約束された聖地エルサレムにかつて王国を誇っていたという旧約聖書の記録だった。この記述に基づいて、「神に約束された土地」に国を作るというアイデアは、宗教上の信仰というよりも、国民統合のためのシンボルという側面が強かった。つまり、パレスチナ問題は、よく言われるような宗教対立が根源にあるのではなく、ナショナリズムに基づいた国民形成という色合いが強いのだ。

●中東のメディアと情報環境

『<中東>の考え方』が出版されたのは2010年5月のことですが、この本の終章に書かれている中東の情報環境についての記述を読むと、2011年にチュニジアの政変から始まってエジプトへと広がったジャスミン革命、リビアのカダフィ大佐の殺害という劇的な展開が生まれた歴史的な出来事がまるで予言されていたかのような印象を受けます。その内容をまとめると、次のようになります。

中東の人々の情報環境は、世界の他の国々と同様、衛星放送とインターネットの普及で劇的に変化した。アラブ諸国のメディアといえば、多くの国では国営放送がほとんどで、政府管理の報道しか見られないというのが従来の状況だったが、1996年にアラビア語衛星放送「アルジャジーラ」が開設されたことで、状況が一変した。アルジャジーラは「中東のCNN」の異名をとり、アラブ諸国の情報統制を軽々と乗り越えた。アルジャジーラが生まれたきっかけは、湾岸戦争にあると言われている。同じアラブ諸国同士が戦い、聖地を抱えるサウジアラビアに米軍が駐留することになった湾岸戦争は中東のどこの国でも最大の関心事だった。どの国でも知識人層は、CNNなど欧米の衛星放送が提供するニュースに釘付けになった。

しかし、その後彼らは自問した。なぜ外国発信の放送なのか? なぜアラブ世界にアラビア語による自前の衛星放送がないのか? それを実現したのが、BBCに努めるアラブ人ジャーナリストたちだった。BBCの湾岸戦争報道を支えた彼らは、カタールの首長からの支援を得て、アルジャジーラが誕生した。

衛星放送以上に爆発的な広がりを見せているのがインターネットだ。2000年から2009年の間に、イスラエルを除く中東・北アフリカ諸国のインターネットユーザーは32倍に増加し、世界の平均増加率の8倍に達した。中東・北アフリカ地域のインターネットユーザーは全人口の24.4%で、世界平均の26.6%にはやや及ばないものの、アジア、アフリカ地域に比べたらはるかに高い数値だ。(Internet World Stats、2010年4月時点)

ネット普及率が5割を超えているのは、アラブ首長国連邦やカタールなど裕福な湾岸産油国だが、2009年時点でイランの普及率は48%、ユーザー数は9年前と比べて129倍に達している。シリアでは119倍、モロッコが104倍、アルジェリアが82倍で、サウジアラビアやエジプトもかなり高い数値だ。

このようなネットの広がりの中で、世界中から届く様々な情報が中東の普通の人々の問題意識をかき立て、国際社会の中で中東やイスラムがどう扱われ、欧米社会が中東に対して何をしてきたのか、といったそれまで一部のインテリしか見聞きすることのなかった情報が、日常の情報として伝わり、人々の関心は自分たちの生活空間を越えてグローバルに広がった。

posted by 平井和也 at 16:57| Comment(0) | 読書 学術 書籍 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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